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プロ野球20世紀・不屈の物語

さらば南海、そして大阪。ホークス、九州の福岡へ/プロ野球20世紀・不屈の物語【1988年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

4月に川勝オーナーが死去


南海・杉浦監督


 1988年といえば、昭和63年。当時を知る人は、昭和天皇の容態が毎日のように伝えられ、世の中は自粛ムードが漂い、誰もが時代の終わりを悟っていたことを記憶していることと思う。若い人には想像しにくいかもしれない。時代は平成を経て令和になったばかりだが、このときの時代の節目とは、まるで様子が違ったのだ。

 昭和の終焉は、プロ野球の世界にも迫っていた。プロ野球が始まった36年から歴史を彩ってきた阪急がオリックスとなったことは紹介したが、この88年、身売りの噂がささやかれ続けていたのは同じパ・リーグの南海だ。やはり戦前の1リーグ時代、39年3月1日に創設。29日に9番目の球団として加盟が承認された。ただ、当時は春季、秋季の2シーズン制で、全9球団と奇数になることで日程が組みにくいという声もあり、春季には間に合わず、秋季から公式戦に参加する。

 強くなったのは戦後。岡本伊三美を紹介した際にも触れたが、復活1年目の46年にグレートリングとして初優勝、2リーグ制となって黄金時代を謳歌した。南海としての最後の優勝はパ・リーグが前後期制となった73年だ。正捕手で四番打者でもあった野村克也が70年から監督を兼任し、この73年に前期を制覇。後期は覇者の阪急に1勝もできず終わったものの、プレーオフでは3勝2敗で阪急を撃破、“死んだふり優勝”とも言われた。だが、その後は優勝から遠ざかり、野村が77年シーズン終盤に退団したことで、低迷は深刻になっていく。78年から1度も勝ち越しなし、5度の最下位を含む10年連続Bクラスで迎えたのが88年だった。

 88年は南海にとって創設50周年という記念すべきシーズンだったが、いきなり悲劇に襲われる。4月に川勝傳オーナーが死去。球団への思い入れが強かった川勝オーナーの死が、その売却を加速させたとも言われる。ただ、悪いニュースばかりでもなかった。黄金時代をエースとして支えた杉浦忠監督の3年目。就任1年目こそ最下位だったが、2年目には4位に浮上するなど、順位を上げてきていた。さらに、魅力的な戦力も加わる。

“不惑の大砲”大活躍も……


本塁打、打点の打撃に冠に輝いた門田


 この88年に入団した新人は、ドラフトの順で吉田豊彦若井基安柳田聖人大道典良(のち典嘉)、吉永幸一郎村田勝喜で、いずれもダイエー時代に戦力となり、のちに“最後の南海戦士”と呼ばれる男たちだ。さらに、メジャー5球団で通算1000試合出場を超えるバナザードが加入。俊足巧打のスイッチヒッターで、リードオフマンとして打線を引っ張っていく。従来の“南海戦士”たちも負けていない。入団6年目の山本和範が21本塁打、プロ5年目の佐々木誠が16本塁打。バナザードも20本塁打を放って、俊足よりも長打力で打線の起爆剤となった。

 この強打者たちをしのぐ結果を残したのが40歳、南海ひと筋19年目を迎えた門田博光だ。シーズン終盤は身売り騒動で集中力を欠き、思うように本数を伸ばせなかったものの、それでも44本塁打、125打点で3度目の本塁打王、2度目の打点王の打撃2冠。“不惑の大砲”は流行語にもなり、南海は最終的には5位に終わったが、打率.311はリーグ6位で、出塁率と長打率はリーグトップ、チーム唯一、自身としては初めての全試合出場も果たした門田は初のMVPにも選ばれている。それでも、時代の流れを止めることはできなかった。

 9月14日、南海のダイエーへの売却、そして本拠地の大阪から福岡への移転が発表される。大阪球場での本拠地ラストゲームでは、杉浦監督の挨拶がファンの涙を誘った。売却の条件は、ホークスの名を残すことだったと伝わる。これにより、南海は歴史になったが、ホークスは九州で黄金時代を迎えることになった。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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