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プロ野球20世紀・不屈の物語

北海道で誰も知らない日本ハム? 高橋直樹がヒゲを生やした理由/プロ野球20世紀・不屈の物語【1968〜86年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

日本ハム初優勝の前年オフに広島へ


日本ハム時代の高橋


「北海道に行ったら、誰も僕のことを知らないんですよ。知ってるのは巨人の選手ばかり。巨人の選手、それも二軍の選手を知っててね、僕の名前を知らない。これでも一応、日本ハムのエースだったのにね。それで、やっぱりプロは何か特徴がないとダメかな、と思いましてね」

 21世紀に入って北海道へと移転して、完全に定着した日本ハム。これが、その日本ハムのエースが言ったことだということは、20世紀を知らない若いファンには信じられないかもしれない。日本ハムが後楽園球場で巨人と“同居”していた時代のこと。プロ野球のテレビ中継が黄金時代に突入しようという時期だったが、試合が全国へテレビで中継されても巨人の試合ばかりであり、人気もセ・リーグ、中でも巨人に集中し、パ・リーグはエースの名前どころか、チームの名前すら、プロ野球に詳しい人でなければ知らないような時代だった。

「何か特徴」のために、口ヒゲを生やし始めたのは1979年の高橋直樹だ。入団は、まだ日本ハムが東映だった68年のシーズン終盤。実質的なプロ1年目の69年に13勝、チームが日拓となった73年にはノーヒットノーランを達成し、77年には3年連続5度目の2ケタ勝利、特に黄金時代を謳歌していた阪急(現在のオリックス)に強いなど、実績も申し分ない。メガネをかけた風貌に加えて、プロ野球の選手としては細身の体を折り曲げるように投げ込むサブマリンというのは、かなり特徴的だったはずだが、チームは優勝から遠ざかり、日本シリーズで巨人と対戦することもなく、そのプレーをファンが見る機会そのものが少なかったのだから、知名度が低かったのは無理もないだろう。ヒゲが知名度アップに貢献したかは定かではないが、この79年、高橋は自己最多の20勝を挙げてハイライトを迎え、口ヒゲもトレードマークとなっていった。

 日本ハムは81年にリーグ優勝、日本シリーズで初めて同一球場で戦う“後楽園決戦”で巨人と対決するが、このときには高橋の姿は日本ハムになかった。日本ハムは80年オフ、広島をリーグ連覇、日本一にも2年連続で導いた江夏豊の獲得を狙い、その交換相手として広島が指名したのが高橋。当初は日本ハムも拒否したが、最終的に高橋は広島へ。翌81年、歓喜に沸いた古巣とは対照的に、高橋は苦しむことになる。

西武で黄金時代の起爆剤に


西武時代の高橋


 広島1年目の高橋は、わずか2勝と低迷。当時のパ・リーグは、指名打者制もあり、エースが試合を任され、相手の主砲との対決が見せ場だった。だが、広島で高橋は江夏の代わりとしてクローザーを期待され、慣れない役割に四苦八苦、さらには先発してもリードを許せば代打を出されてリズムを作れなかったのだ。実際、82年シーズン途中に西武へ移籍してパ・リーグ復帰を果たすと、まさに水を得た魚のように復活。「ずっと休んでたから絶好調で」(高橋)と、いきなり2勝を挙げて、これが西武の前期優勝における大きなポイントになった。

 西武は高橋にとって古巣の日本ハムをプレーオフで撃破、中日との日本シリーズも制して日本一に。初めて経験する日本シリーズの大舞台で高橋は2試合で先発を任されて、プロ14年目にして初めて頂点を経験した。翌83年には13勝3敗、勝率.813はリーグトップという活躍で連覇に大きく貢献。巨人との日本シリーズでも前年と同様に2試合で先発した。このときには、ヒゲのサブマリンを名前すら知らないという人は減っていたはずだ。

 ただ、すでに大ベテラン。西武の世代交代は加速し、86年には巨人へ。やはりセ・リーグでは活躍できず、わずか4試合の登板に終わり、オフにユニフォームを脱ぐ。18年間の現役生活だった。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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