一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 あのとき私は…だった!
今回は『1971年11月15日号』。定価は90円。
「あのとき私は…だった!」
というのは、よくある「今だから話せる、あのときのこと」という告白シリーズ。今回が連載1回目だったが、登場したのは、
中日監督を退任したばかりの
水原茂だった。
語ったのは、少しさかのぼるが、1970年、あの小川健太郎の話である。
「小川がオートレースの八百長をやっていた疑いをもたれているらしい」という知らせを中日本社から受けたのは、4月28日(1970年)であった。
やりきれない思いをさせられ、精神的にも戦力的にも深い傷を受けた、小川健太郎投手の黒い霧問題を知った最初であった。
当日中日は
広島へ遠征して宿舎の世羅別館に泊まっていた。私はすぐ小川を呼んで、八百長問題について関係の有無を追及した。
「八百長問題はスポーツ紙だけではない。一般紙も社会部や特捜班が追っている。実際にクロであれば、しらを切り通せるものではない。はっきり言ってくれ」
小川は「絶対大丈夫です。やましいことはやっていません」と冷静だった。
「絶対にシロであるなら予定通りあす先発させる。投げる自信はあるか」
「あります」
半信半疑ながらシロの心証を強くし、幾分安心して、その夜は寝た。
朝起きて驚いた。
世羅別館の前に旅館がある。その前にむしろを敷いて、数十人の男たちがたむろしている。
一瞬ストライキが起こったのかと思った。ところがそれは、小川の取材に押しかけてきた記者やカメラマンであった。
事態は容易ならんところまで発展していることが感じられたが、あくまでシロを主張する小川の言葉を信じ、記者会見は拒否し、広島球場に向かった。
果たして、小川がどのようなピッチングをするのか。シロであれば堂々と胸を張って、クロ説を払しょくするようなピッチングをするに違いない。
しかし、もしクロならば、これだけ問題になり、新聞記者にも追いかけられているのだ。不安からピッチングは乱れるだろうと思っていた。
ところがその日の小川は一度救援を受けたが、完封だと言っていいほどの素晴らしいピッチングだった(3回途中、小野がワンポイントでサードへ。その後、すぐマウンドに戻り、最後まで投げ切った)。
この小川のピッチングを見て、私は「小川はシロだ」と、ますます信用する気になった。
しかし、現実にはこの試合の登板が小川の最後の登板、最後の勝利になったわけだ。
今から考えると、小川は「これが最後の登板になるかもしれない」とひそかに心中に期するものがあり、世評に対する反発もあって、全力投球したのかもしれない。
いずれにしても私は小川の潔白を信じて、広島から大阪への移動も同行させた。
大阪遠征の宿舎竹園に着いた日、大阪読売が「小川がオートレースで八百長をやった」という記事をポンと出した。
「お前はやってないというが、問題がこのように表面化した以上、シロかクロか決着がつくまでファームでやっていろ」
と言って、甲子園球場にはつれていかなかった。
その後、球団として小川がクロかシロかという調査をした結果、やはりクロらしい、という事実がいくつか出てきた。
宿舎、あるいは自宅で新聞記者の追及を受けるということは小川のためにも避けさせてやりたい。
いったん自宅に帰っていた小川を、足木マネジャーがこっそり連れ出し、自動車で東名高速を走しって、警視庁に自首させた。
5月6日のことだった。
では、またあした。
<次回に続く>
写真=BBM