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伊原春樹コラム

野村克也の“ささやき戦術”、門田博光のフルスイング…南海ホークスの思い出/伊原春樹コラム

 

月刊誌『ベースボールマガジン』で連載している伊原春樹氏の球界回顧録。2020年4月号では南海ホークスに関してつづってもらった。

またストレートが来るかと思ったら……


南海・野村克也


 1950年代後半のパ・リーグは毎年のように西鉄と南海が優勝争いを繰り広げていた。いわばパの黄金カードだったと言えよう。しかし、私が西鉄に入団した71年には黒い霧事件の影響もあり、戦力がガクッと落ちて力の差はあった。だが、他の球団と対戦するときより相手が南海であるということに対して相当意識はあったと思う。入団したころはもう阪急の黄金時代だったが、阪急とやるよりも南海との対戦のほうが、伝統の西鉄−南海戦という意識があった。

 当時はいまのようにパはお客さんも多くないし、ウィークデーになるとヤジもかなり聞こえた。大阪球場はすり鉢状になっていて、声がものすごく聞こえる。あのころは楽器もなく手拍子だけで個人のヤジ合戦。特に大阪球場で南海とやるときのヤジはすごかった。

 例えば、「竹之内(竹之内雅史)さ〜ん、昨日の夜、新地歩いていましたな〜」と、そんなヤジばかり。キャッチャーで兼任監督だった野村(野村克也)さんの“ささやき戦術”も有名だったが、最初は私にはささやくことはなかった。それが2年目、大阪球場でマッシー村上さんの内角ストレートをレフトスタンドへ運んだ次の打席だった。野村さんが「おい、さっきは狙ってたんかい? もういっちょいってみるか」と、ついにささやいてきた。ただ、当時の私は疑うことがなかった。また内角真っすぐが来るのかと思ったら、アウトコースのシンカー。三冠王まで取った野村さんが言うのだから、真っ白な素直な心で、本当にほうってくると思った。結果は体が前に出てセカンドゴロに終わったが、ある意味プロの厳しさを味わった。

 野村さんはスタメンで出ている選手には特にブツブツ言っていたようだ。凡退して帰ってきた竹之内さんが「くそうるせえ、またボソボソ言うから屁をたれてやった」と言うのをベンチで聞いて大笑いしたのを覚えている。

 あるとき、平和台球場でベンチに座っていると、大ベテランの三浦(三浦清弘)さんというピッチャーに、「野村さんが出てきたら『枯れ木がまだやってんのか』ってヤジれ」と言われたこともある。大先輩の命令だから言われるままにそうヤジると、野村さんも「お前も枯れ木やないかい」と怒って言い返してきた。まさか新人の私が言っているとは思わなかったようだが、「どうも三浦さんじゃない、伊原らしいですよ」とほかの選手が気付いて、試合途中で打席に立った際、ヤジ将軍の大塚(大塚徹)さんに激しい“口撃”を受けたのを覚えている。

フルスイングを貫いた門田博光、佐々木誠


南海・門田博光


 南海の選手はものすごく個性があった。サードの藤原(藤原満)さんは人はいいけど顔がいかつい。当時人気のあったチャンバラトリオのリーダーの山根伸介さんにそっくりだった。似ていると言うと、怒りもせずに「サンキュー」と言える心が広い人だった。太いバットを短く持ってバッティングはしぶとく守りも堅実だったのも覚えている。

 あとはやっぱり門田(門田博光)さん。試合前の練習を見ていても本当にフルスイング。1球1球場外に飛ばすようなスイングをする。野村さんが門田さんに「そこまで振らんでいいだろう」と言ったそうだが、「あいつも変人でな。俺の言うことは一つも聞かん」と。門田さんは、アキレス腱を切る前は足が速くて肩も強くて体幹もしっかりしている三拍子そろった外野手だった。フルスイングは昔から変わらない。王(王貞治)さんほど右足を上げる時間は長くなかったが、完璧な1本足打法。野村さんの言うことは聞かないので、王さんを通じて「そんなに常にフルスイングしなくていい」と伝えても、俺は俺のやり方があるっていう侍で、迎合はしない人だった。それだけにあれだけの練習をしたと思う。マシン独占状態で、短い距離からでもフルスイングしていた。

 若干似ているタイプの選手が佐々木誠だろう。彼もフルスイングだから、ダイエーから西武に来たとき、キャンプではティーで鉛入りのボールを、バットに重りをつけて打っていた。「お前、腰とかいわさんかい?」と聞いたら「大丈夫ですよ」と言っていたが、腰を痛めて、崩れていった。ダイエーでコーチを務めていた藤原さんが「あいついい選手なんだけど、なんでもかんでも打つんだ。あれがなければ素晴らしいのに」と言っていたが、西武に来たときはボール球を振らなくなった。嫌らしさもあって、92年に首位打者も取った巧打者だった。

 私のことを慕ってくれて、セガサミーの監督になったときにも連絡をくれた。勉強熱心で選手に教えたいからと言われ、走塁に関して書いた私のノートを貸したことがある。セガサミーも初めて都市対抗に連れて行った。NTT西日本でも監督を任され、その後もソフトバンクのコーチに就任。いまは鹿児島城西高野球部監督として指揮を執り、たった2年でセンバツ初出場校チームに育て上げた。指導者としてもいいものを持っているのだと思う。

 南海には驚くほどのすごいピッチャーはいなかったが、印象に残っているのは、マッシーさんや巨人から来た山内新一さん。山内さんはそんなに速いボールだとは思わなかったが、野村さんの配球がうまかった。スライダーを外に出し入れする。打ってこないと思ったらストライクになるスライダーをほうらせて、次は外にはずす。ときどきシュートを入れながら。ピッチャーの持ち味を配球によって生かす駆け引きがうまかった。

 江本(江本孟紀)さんへのリードも同様だった。3ボール2ストライクになってもボール球を要求するから、バッターのほうが狂って振ってしまう。野村さんの力があってピッチャーが生きたのだと思う。あとは抑えの佐藤(佐藤道郎)さん。140キロそこそこのストレートとスライダーだけだが、打てるものなら打ってみろという感じで度胸一番で投げてくる。印象に残る投手だった。

実は幼いころから南海ファンだった


 今の時代になってもライオンズとホークスのライバル関係は続いている。セ・リーグでいったら巨人対阪神戦。南海戦はなにがなんでも勝つぞという雰囲気だった。

 電鉄会社も下火になったころで、ドラフトにもあまりお金をかけられずに南海は低迷していったが、新しく景気のいい会社であったダイエーが親会社になった。ライオンズのいた九州・福岡に、かつてのライバルチームのホークスが行くことになったのもドラマを感じる。身売りの話を聞いたときは、やっぱり寂しい気がした。あの大阪球場がなくなるのかと。ミナミの繁華街のど真ん中にあって、野村さんなんかには「どこの飲み屋行っとったんや」とよく聞かれたものだ。

 私はもともと南海ファンだった。広島の地元の近くにお寺があって、近所の友達と寺の境内で三角ベースをやったり、夏休みのラジオ体操をやったりしていた。遊びに行ったとき、当時は甘い食べ物もあまりない時代だから、お寺のお供え物が食べたいなと思っていると、「掃除したら食わせてやるよ」と住職さんがよく言ってくれた。その住職さんにどこのファンかと聞かれて、カープと答えたら、「南海ファンになったらお供えやるぞ」と。みんなすぐに南海ファンになった(笑)。それが小学校5、6年のころ。四番の野村さんや日本シリーズの巨人戦で投げたジョー・スタンカがすごかったことは、子ども心にうっすら覚えている。

 そこからずっと南海ファン。小学6年か中学1年のころ、野村さんに、「サインをください」と手紙を出したこともある。サインは当然、来るわけないが……。プロに入って79年、ライオンズが埼玉に移転して西武になったら、そこにまさかの野村さんが入団。大田卓司と野村さんを食事に誘ったことがある。そこで、子どものころ野村さんに手紙書いたことを話したら、「そうか……覚えてないな」と。まあ、覚えているわけはないだろう(笑)。

 南海の選手には仲のいい選手もいた。法政出身の富田(富田勝)さん、父子そろって南海の堀井(堀井和人)さん、藤原さん、みんなかわいがってくれた。芝浦工大時代に法政と練習試合を何度か行ったことがあり、親しみを覚えてくれていたようだ。後に堀井さんとはすごく仲良くなって、いまでも親交がある。他のチームの選手とはほとんど付き合いがないから、南海というのはライバルだったが、仲のいい選手もいた、そういう特別なチームだった。

写真=BBM
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