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プロ野球20世紀・不屈の物語

石田雅彦から黒木知宏へ。ロッテの背番号54とともに継承された不屈の魂/プロ野球20世紀・不屈の物語【1985〜98年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

報われなかった物語



 この連載では、これまで100を超える物語を紹介してきた。そのほとんどが、結果を残し、名をも残した男たちのドラマだ。つまり、不屈の魂が“報われた”物語。プロ野球の長い歴史にあって、成功を収めた選手は決して多くない。不屈の魂を発揮することなく、順風満帆のままグラウンドを去っていった選手は皆無といっていいだろう。

 その一方で、不屈の魂を燃やしながらも、結果につながらず、球史に小さく名を刻んだだけで、不完全燃焼のまま去っていった選手は数えきれない。故障や病気で真価を発揮できなかった選手もいただろう。監督やコーチと折り合いが悪く、使ってもらえなかった選手もいるかもしれない。練習の厳しさに耐え切れず、ついつい怠けてしまいました、という選手だっているに違いない。それも人間らしさだろう。こうした選手たちの数だけ、成功した男たちよりも深い不屈の物語があり、そのほとんどが継承されず、語り継がれることもない。言い換えれば、“報われない”不屈の物語が継承されるのは異例のことなのだ。

 1998年、ロッテの“七夕の悲劇”については、この連載でも最初のほうで紹介している。9回裏に同点2ランを浴びてマウンドに崩れ落ちた黒木知宏についても触れた。その背中にあったのが、54番。大きな背番号で活躍する選手が増えてきた時代であり、そうした選手の1人でもあった黒木だが、もともと希望していた背番号は社会人で着けていた11番。ドラフト2位で95年に入団したが、このとき11番は、黒星を先行させながらも先発の一角として投げ続けていた前田幸長が背負っており、空席となったばかりの背番号54を与えられたのだ。

 このとき、黒木は「期待されていないのか」と落ち込んだという。そんな多感な若者に声をかけたのが、94年まで背番号54を着けていた左腕の石田雅彦だった。「俺が54番を温めておいた。だからジョニーは、きっと活躍できる」……。その場に居合わせたわけではないから、この言葉とともに、どんなものが2人の間で通い合ったのかは分からない。語り継がれている石田のセリフですら、一言一句、正確ではないだろう。ただ、このささやかな言葉が、黒木の心で荒れていた琴線を美しく奏でたことは確かだ。そして、背番号54とともに、石田の“報われなかった”不屈の物語が、黒木へと継承されていく。

ドラフト1位で入団した石田だったが


石田雅彦


 石田は85年の秋、ドラフト1位でロッテに指名された。このドラフトは、PL学園高の清原和博(のち西武ほか)と桑田真澄(のち巨人)の去就が注目された、いわゆる“KKドラフト”。ロッテは伊東昭光(のちヤクルト)を指名したが交渉権の獲得はならず、その“外れ1位”だった。ドラフト1位で指名された選手は若い背番号を与えられることも多いが、石田が与えられた背番号は54番。現役生活の最初から最後まで、背番号54を貫き通したのだ。

 ただ、故障に苦しみ、そのキャリアは短かった。一軍デビューは4年目の89年だったが、打者1人に四球を与えたのみ。2年後の91年に迎えた次の登板では打者1人に適時打を浴び、これが最後のマウンドとなった。一軍での登板は、この2試合のみ。一死も奪えず、そして千葉のマウンドを経験しないまま、94年オフに打撃投手に役割を変えた。

 もちろん、最初から54番を黒木のために温めていたはずもない。54番を輝かせることができず、温めておくことを余儀なくされた9年間でもあっただろう。無念の思いもあったはずだ。だが、その思いが黒木の魂を刺激し、そしてファンの魂を震わせていった。ちなみに、95年オフに前田は中日へ移籍しており、もし1年だけ黒木の入団が遅ければ、この継物語は実現しなかった。千葉ロッテの歴史が違っていた可能性もあるだろう。

 いつしか“魂のエース”と呼ばれるようになった黒木。雄叫びを上げる姿も印象的で、98年には最多勝にも輝いたが、それだけでファンの魂を共鳴させることはできまい。その後、たびたび背番号の変更を打診された黒木だったが、引退までの13年間、54番を背負い続けている。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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