歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。 田尾はボール球を憮然と空振り
メジャーに続いて導入された敬遠の申告制は定着していくのだろうか。敬遠を申告する場面をドラマチックに仕上げるのは難しい。なんとも、あざといことになりそうだ。とはいえ、あざといくらいのほうが近年は分かりやすい傾向もあるようで、申告制もショーとしての可能性を秘めているのかもしれないが、20世紀のプロ野球を知るファンにしてみれば、もったいないことに思えてしまう。
巨人の
上原浩治が
ヤクルトの
ペタジーニに対して敬遠を指示され、マウンドで悔し涙を流したのはプロ1年目の1999年のことだ。このときペタジーニは巨人の
松井秀喜と本塁打王を争っていて、ペタジーニと松井の表情も上原の涙をドラマチックに見せることに貢献した。一方で、上原が涙を流しながらマウンドを蹴り飛ばしているときに
長嶋茂雄監督が静かに敬遠を申告していたら、これほどまでに語り継がれることはなかった気がする。
さかのぼること17年ほど前。上原の巨人での先輩にあたる江川卓にも、敬遠の名場面があった。
阪神の四番打者で同い年の
掛布雅之と名勝負を繰り広げたことは紹介したばかりだが、江川が掛布に対して敬遠を指示されたのは82年のこと。掛布は振り返る。
「江川は無四球試合がかかっていたと思うんです。1点差で2アウト二塁ですか。そこで敬遠のボールを見たとき、このピッチャーはすごいんだと思いました。目の前を浮き上がっていくようなボールを投げるんですもん。なんちゅう敬遠のボールを投げるんだ、と。あのときは怖さを感じました」
82年といえば江川と掛布の名勝負も始まったばかり。その後の対決も、違った雰囲気になっていたかもしれない。その82年にはセ・リーグの最終盤でも敬遠にまつわるドラマがあった。大洋の
長崎啓二と中日の田尾安志が首位打者を争い、最終カードは大洋と中日の3連戦。打率.352の長崎を打率.344の田尾が追いかけ、2試合で8打数6安打、一気に打率.350と迫った。だが、迎えたシーズン最終戦で長崎は欠場、田尾は5打席すべてで敬遠。中日にとっては優勝を決める1戦でもあり、最後の打席で3ボールから明らかなボール球に憮然と空振りを続ける田尾に球場は騒然となった。
醜いタイトル争いの産物ともいわれるが、これも実際にボール球を投じることで初めて生まれるドラマ。もちろん、
日本ハムの
柏原純一や阪神の
新庄剛志のように、敬遠球を本塁打やサヨナラ打にする離れ業も、申告制では見ることができない。
ちぎっては投げて20勝を突破
申告制の導入は試合時間の短縮が目的だというが、なにかと“時短”がもてはやされる昨今、これも時代の流れなのかもしれない。ただ、20世紀のプロ野球には、その“時短”ピッチングで鳴らした投手がいた。その1人が、ヤクルトのコワモテ監督としても人気を集めた
土橋正幸。現役時代は東映(現在の日本ハム)ひと筋の右腕だった。その投球は、とにかくテンポがいい。「ちぎっては投げる」と言われ、球を受け取るや否や投球モーションに入ってポンポンと投げ込んだ。土橋が登板すると試合が短くなるため審判が喜んだという。いわゆるチャキチャキの江戸っ子で、気が短かったから投球の間も短かったというが、結果的に打者は土橋のリズムで打たねばならなくなり、次々に凡退していった。
土橋は5年目の58年に21勝を挙げてブレーク、以降7年連続2ケタ勝利も、20勝を挙げた64年を最後に故障で失速。全盛期も短かった。土橋に負けていないのが
松本幸行。74年に20勝で中日の優勝に貢献した左腕だ。快速球で鳴らした土橋とは対照的に、松本は超スローボールでも打者を翻弄した。松本が投げる試合を中継するときは、早く試合が終わるためテレビ局が穴埋めの番組を用意していたという伝説も残る。
土橋は鬼籍に入り、あっさりと81年に阪急で引退した松本はプロ野球から離れた。時代は流れ、チームの作戦も緻密になり、こうした投球も難しくなっている面もあるが、20世紀の“時短”男たちは、21世紀の“時短”を、どう思うだろうか。
文=犬企画マンホール 写真=BBM