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スタルヒンの選んだ道、彼の「国籍」は「野球」だった

 

大エースがつかんだ栄光と寂しき笑顔の理由


8月24日号表紙


 本日発売(一部地域を除く)の「週刊ベースボール8月24日号」の特集は“外国人選手”。恒例となった歴代全外国人選手名鑑も掲載しているが、人数は、すでに1290人。このまま行くと1冊丸ごと名鑑になってしまいそうだが、それはまた、そのとき考えるとしよう。
 今回は、その特集中の一文を加筆修正し、掲載させていただく。
 テーマはヴィクトル・スタルヒンだ。

「沢村のほうが速かったでしょう、オール日本のときは。でも、その後、昭和12年なんかには、沢村の隣で、ワシがピッチングをやっていると、藤本さんに、あんまり速い球を投げるな、と言われたです。沢村が自信をなくすからと言って」
 1955年、ヴィクトル・スタルヒンは最終所属のトンボ・ユニオンズで通算300勝の金字塔を成し遂げ、同年限りで引退。これは、直後、56年「ベースボールマガジン1月号」で大和球士のインタビューを受けたときの言葉だ。

 昭和12年、1937年秋、まだ20歳にもかかわらず、巨人の大投手・沢村栄治の体は、積年の疲労に悲鳴を上げ始めていた。
 48試合のシーズンだったが、同じ巨人のスタルヒンは15勝で、沢村は9勝。56試合制の春は、沢村は30試合に投げ、24勝4敗、防御率0.81、スタルヒンは13勝4敗、防御率1.53だから、沢村の急降下がよく分かる。
 
 冒頭の言葉、一読目ではスタルヒンの保護者的存在だった藤本定義監督の言葉にドキッとしたが、読み返すと、自らの速球を誇る響きはない。
 沢村が愛する妻子を残し、無念の戦死を遂げたことに加え、34年の日米野球以来、沢村の熱投を間近で見ていたこともあるはずだ。
 2人は、34年全米選抜との対戦のために構成された全日本に、同じく中等学校中退で加わった盟友でもあった。

 沢村はその中の1失点完投負けで一躍スターとなり、米球界にも名を轟かせたが、結果的にはそれが二度のアメリカ遠征、国内遠征と、プロ野球公式戦スタート前の過酷な連投につながる。
 力が抜きん出ていたからだけではない。沢村が投げなければ、観客が納得しない雰囲気になっていたのだ。
 
 スタルヒンは当時、藤本監督に「沢村に負けるな、追いつけ」と言われ続けていたという。
 一歩先を行くかのような沢村を見ながら自らの速球を磨き続け、この37年秋、唐突に抜いた。
 もちろん、自分の力だけでなく、相手の力が落ちてしまったこともある。それはずっと追いかけてきたスタルヒンが一番分かっている。
 この後、沢村は応召。まるで「巨人のエース」というバトンをスタルヒンに託したかのようでもあった。

 沢村は40年に復帰。同年、スタルヒンの38勝に対し、兵役中に肩を壊した沢村は7勝だった。速球はよみがえらぬまま、3度目の応召で、戦死した。

 スタルヒンは、前年の39年にはプロ野球最多42勝を挙げているが、決して“力押し”をしたわけではない。
「登板数が多いもんだから、あまり力を入れて投げるとくたびれるから打たせるんです。バックがいいから、もうゴロさえ打たせればなんとかなっていたから。もし一塁にランナーが出るとシンカーをババッと投げて、サードゴロぐらいで、ダブルプレーでおしまい、という具合にね」
 沢村が“壊れていく”姿を見たこともあったのかもしれない。

 ただ、40年の9月から、しばらく記録の上で、スタルヒンの名前は消えている。当時、外国人への敵視が強まり、もともと軍部に敵性スポーツとにらまれていた球界でも、存続のため、アルファベット表記や横文字をなくしていた。
 この流れの中でスタルヒンは「須田博」と改名した、いや、させられた。

 38年巨人に入団した後輩・千葉茂は、のち「スタルヒンの本当に悲しそうな顔をしたのを見たのはこのときだけ」と話している。

 スタルヒンの試練は、このときに始まったわけではない。
 ロシア革命後、スタルヒン一家は迫害を受け、命からがら日本にたどりつき、北海道旭川に居を置いた。
 旭川中で「全日本に参加しないか」と声を掛けられた際は、地元、学校関係者の反対もあって参加を拒んだが、父親が殺人事件を犯し投獄されていたこともあり、勧誘者から「このままなら国外追放」と脅迫された。
 ロシアはソビエト連邦となり、戻れば間違いなく、投獄、そして人知れず命を落としていただろう。
 葛藤の末、夜逃げをするように故郷を去った。

 全日本は、そのまま巨人につながっていくのだが、戦局の悪化が進み、日本は、スタルヒンには生きづらい社会になっていく。
日本語はペラペラだったが、190センチを超える長身と容姿が悪いほうで目立った。
 街を歩くとき、薄目にし、真っすぐ前だけを見て歩いたというが、これも周囲を見回すと、憲兵に「お前はスパイか」と問い詰められるかもしれなかったからだ。
 終戦間際は長野県軽井沢の外国人収容施設に軟禁されたが、当時の資料の国籍の欄には「旧露」と書いてあった。
 断っておくが、スタルヒンは巨人入団後、何度となく、帰化申請をしたが、そのたび却下されている。

 終戦後は進駐軍にいた。巨人時代の恩師・藤本の誘いもありパシフィックで球界に復帰し、前述のように史上初の300勝投手にもなった。この時期なら日本国籍は簡単に取れたはずだが、特に動いた様子はない。

 いつもニコニコとし、明るかったという。
 道化のようにおどけることもあったという。
 先輩には従順で後輩の面倒見もよかった。ただし、それは苛烈な人生を歩む中で張り付いた仮面でもあったのかもしれない。

 巨人時代の仲間は明るい笑顔の奥の寂しげな光に気づいていた。
 入団当初は口の悪い先輩に、からかわれることもあったようだが、藤本が監督になってからはなくなった。藤本がかばったからだけではない。武骨な男たちが野球人としてのスタルヒンを認めたからだ。
 千葉は自身の連載コラムで、こう書く。

『ワシらが彼を差別したことは一度もないし、ロシア生まれだから日本人とは違う、などと考えたことは一度もない。少なくともワシは彼を大和魂を持った立派な「日本人」だったと思っている。彼は結果として「無国籍」になったが、それは彼が選んだ道で、ワシらがとやかくいうべきではない。いや、スタルヒンには「野球」という立派な「国籍」があった。この国籍を誇りにしていたスタルヒンを、ワシらは尊敬していた。』

 1957年1月、冒頭の記事からわずか1年後、スタルヒンは自動車事故で死去。40歳だった。

文=井口英規
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