歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。 巨人と阪神では小林繁の背に
球界のエースナンバー18に残る竜の悲劇と再生については紹介したばかりだ。続く背番号19も、10番台に投手が並ぶのが定着したこともあり、投手の背番号という印象が強い。投手の19番といえば、オールドファンは真っ先に
巨人と
阪神でエースとして活躍した
小林繁を思い浮かべるのではないか。巨人のリーグ優勝に貢献して沢村賞に選ばれた右の変則サイドハンドだが、
江川卓との“トレード”で阪神へ。前代未聞の騒動に巻き込まれた形だったが、その毅然とした態度はファンを魅了。ただ、小林は移籍の際に背番号19を強く要望したという。このときのことに関しては、いずれ詳しく述べるが、小林が引退してから阪神では
中西清起が継承して日本一に貢献、巨人では20世紀の最終盤に
上原浩治が後継者となって1年目から他を圧倒する結果を残した。
ただ、この19番を四半世紀、プロ野球の歴史で最長となる25年にわたって背負い続けたのは投手ではなかった。南海から
ロッテ、
西武へと渡り歩いた捕手の野村克也だ。21世紀に入って
楽天の監督としても着けているので、それも加えれば29年になる。巨人の
王貞治が1、同じく
長嶋茂雄が3を“もうひとつの顔”としたように、野村にとっても19はトレードマーク以上の存在といえるだろう。
2020年に
甲斐拓也が後身の
ソフトバンクで背番号19の後継者となったが、捕手の背番号19は野村の時代でも少数派だった。だが、そんな野村も期待されてプロ入りしたわけではない。最初は契約金ゼロのテスト生で、与えられたのは背番号60だった。近年こそ選手が背番号を着けるのは一般的だが、ほとんどの監督が背番号30を着けていた時代。最近に置き換えると、100番台の番号を与えられた感覚に近かっただろう。
野村と19番の出会いは1956年。1リーグ時代から南海の司令塔を務め、前年まで在籍していた
筒井敬三の背番号を継承した形だった。筒井は南海のエースだった
別所昭(のち毅彦)を巨人が引き抜いたことに端を発して、巨人と南海のカードが遺恨試合の様相を呈し、49年に巨人の
三原修監督による“三原ポカリ事件”で殴られた捕手としても知られるが、入団したのは戦後で、背番号19を着けたのは2リーグ制となってからの52年だ。38年の秋からプロ野球に参加した南海にあって、終戦まで背番号19を着けた選手は2人のみ。うち1人は身長、体重の数字すら残っていない。だが、投手としては驚異的な数字を残している。
マスク姿の右腕
その男の名は
神田武夫。野村と同じ京都府の出身で、巨人の
沢村栄治は京都商の先輩にあたる。沢村と同様、甲子園にも3度の出場で、やはり快速球で鳴らして“沢村2世”と評された。もちろんプロや社会人による争奪戦となったが、肋膜炎だと分かってからは潮が引くように手を引いていき、唯一、態度が変わらなかったのが南海。「投手がダメなら野手でもいい」と言われて入団を決めると、神田は全身全霊で恩に報いていく。
1年目の41年はチーム84試合のうち52試合に登板して25完投、25勝19敗、防御率1.59。肋膜炎は結核に悪化し、ベンチでは常にマスクをして、マウンドに行くときだけ外した。結核は静養こそ唯一の治療法だった時代、さすがにオフには引退を勧められたが、「だいぶ回復しました。やらせてください」と言って残留する。翌42年はチーム105試合のうち61試合に投げて27完投、24勝20敗、防御率1.14。マウンドで吐血したこともあったが、その後も戦列に残り、時には志願してマウンドへ向かうこともあった。
戦局は悪化の一途をたどり、人々は食糧難に苦しんでいた。オフから治療に専念した神田だったが、翌43年7月27日、死去。22年に生まれたことは伝えられているものの、月日の数字は残されていない。南海は戦後、ホークスを名乗り、やがてダイエーとなって、現在のソフトバンクに至る。ベンチで誰もがマスクをしている2020年だが、より壮絶だったマスク姿の右腕がいた2年間に思いを馳せると、遠い時間の彼方から、小さな声援が聞こえてくるような気がする。
文=犬企画マンホール 写真=BBM