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平成助っ人賛歌

東京ドーム公式戦第1号を放った“一茂の教育係”デシンセイ/平成助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】

 

ポスト・ホーナーともう1つの役割


ヤクルト・デシンセイ


 1989年春、平成最初のセンバツ甲子園の入場曲は光GENJIの『パラダイス銀河』だった。

 前年3月に発売されたこの曲は、88年(昭和63年)の日本レコード大賞を受賞。オリコン年間シングルCDランキングのベスト3を独占した光GENJI人気はピークを迎えていた。当時、小学校の運動会ではこの『パラダイス銀河』と爆風スランプの『Runner』が大音量で流れ続けたものだ。日本の空前の好景気を象徴するかのようなやたらとテンションの高いアッパーなリズムに乗って、子どもたちは校庭をご機嫌に走り回った。

 プロ野球界では、88年春に日本初の屋根付き球場・東京ドームが開場。開幕戦で記念すべき公式戦第1号アーチを放ったのは巨人の「四番・サード」原辰徳……ではなく、対戦相手のヤクルトの「四番・サード」だった。日本へやって来たばかりのダグ・デシンセイである。このデシンセイこそ、ある意味、昭和最後のシーズンを象徴する選手だった。本連載は印象的な平成外国人プレーヤーを取り上げてきたが、今回はそんな平成突入直前のいわば時代をつないだ1988年の助っ人選手を紹介しよう。

 デシンセイは大リーグで通算1505安打、237本塁打の実績を誇り、12年連続2ケタホームランを記録。全盛期の三塁守備は“フーバー(人間掃除機)”の異名を持った守備の名手でもあった。来日時すでに37歳の大ベテランだったが、前年もエンゼルスとカージナルスで137試合に出場、打率.234ながらも16本塁打を放っていた。87年シーズン、ヤクルトに所属したボブ・ホーナーに代わる現役大リーガーでもあった。

 なお、デシンセイの推定年俸は1億9000万円。当時チームメートの広沢克己の年俸が2400万円、池山隆寛が1600万円、ベテラン捕手の八重樫幸雄でさえ3200万円だったことを考えると、まさに好景気に沸くジャパン・アズ・ナンバーワン時代の超破格の好待遇である。この大物にはポスト・ホーナーだけではなく、もうひとつ重要な役割が託されていた。同じ右打ちの三塁手、前年のドラフト1位、長嶋一茂の教育係だ。父・茂雄とデシンセイは知り合いだったため、「あの人の息子か。どういうプレーをするのかな? 大リーガーの自分とライバル視されているから、かなりすごいプレーヤーなんだろうな」と思いを巡らせながら、2月15日午後、自宅のあるカリフォルニアから車を飛ばして、ヤクルトキャンプ地のユマ入り。そこで、デシンセイはいきなり異様な報道陣の数に驚く。

「ワールドシリーズやプレーオフならば不思議ではないが、キャンプにこんなに多くのカメラマンが来るのか?」という視線の先には、真新しい背番号3をつけたナガシマジュニアの姿。人気番組『ニュースステーション』では連日カズシゲコーナーを放送するフィーバーぶりだった。初対面で握手を交わし、「手が大きく、力もありそうで素晴らしいプレーヤーだろう」なんて空気を読んで強引に15歳下のルーキーを褒めるデシンセイ。しかし、だ。練習を見るなり驚愕する。ナガシマは三塁守備にしろ打撃にしろ基本がまったくなっていない。「この選手がオレのライバルだって……」と唖然。やがて、「彼はルーキーだぞ。オレは大リーグで15年間、プレーしてきたんだ」とコメントするようになる。

「彼がスターになるなら、いくらでも協力したい」


キャンプで長嶋(右)とともに守備練習を行うデシンセイ


 一方でデシンセイは、自身の役割を受け入れ定期的に背番号3を指導するようになる。守備練習で、片言の英語を話しグラブさばきを学ぶ一茂の視線は真剣そのものだった。周囲が伝説的選手の息子でもあるゴールデンルーキーを見たいのは分かっている。だが、オレはオレの仕事をするだけだ。当然のように「四番・三塁」で起用されると、日本中が注目した4月8日の東京ドーム開幕戦で公式戦第1号アーチ。この桑田真澄を打ち砕いた一発はNPB初打席初本塁打でもあった。背番号15は翌日も第2号を放ち、開幕10試合で5本塁打という猛打で関根潤三監督からは「デーやん」という愛称で呼ばれるようになる(デシンセイ本人は「デ、デーやんってどういう意味?」と謎に思ったらしいが)。全盛期に三塁線の魔術師と称された守備はさすがに肩が衰えていたが、身長188センチ、体重88キロと体型は維持しており、再三の好プレーでチームを救ってみせた。4月中に周囲が騒いだ一茂との三塁ポジション争いは、あっさり決着が着いたのである。

『週刊ベースボール』88年5月9日号掲載、デシンセイ特別インタビューのタイトルはそのままズバリ「カズシゲをスーパースターにするのはボクの役目さ!?」。ちなみに長嶋一茂は5月に2度も週ベの表紙を飾っている。インタビュアーのアメリカでのプレー経験もある小川邦和から、団体行動が多い日本式の練習について聞かれると、デーやんはジョークも交えこう切り返す。

「昔の軍隊みたいに、必死の形相でなんでもやる。そのまま戦場へ行って、帰って来れないような雰囲気だ。エネルギーだって、出し切ったまま戻ってこないんじゃないかな(笑)」

「試合の3時間くらい前から練習を始めるので、ゲームまでにかなり時間が空いてしまう。一番の問題は練習で体をいじめることじゃなくて、いかにゲームに集中して勝つかが目的。このあたりの過剰なトレーニングもちょっと気になるところだね」

 もちろん8月には38歳を迎える自身の体力的な問題もあっただろう。大リーグ時代から慢性的な腰痛を抱え、もう現役生活が長くないことも分かっていた。ならば、日本でナガシマの息子の指導役も受け入れよう。その人気者の存在をデシンセイはこう語る。

「彼(一茂)にとって一番やっかいな問題は、マスコミに対して余計な神経を使わなくてはならないということ。プレッシャーも大き過ぎる。もっとリラックスさせてやることが必要だ」

「強い体を持っていて素材は大変いい、と思う。将来はビッグ・スターになるはずだ。ボクだってメジャーに上がった当初は、いろいろ戸惑った。彼にも、最初から多くのことを期待するのは難しいと思う。いろんないい選手のプレーを見て、研究して頭にたたき込むことが大切だ。たとえばボクの守備を見ていて、自分とどこが違うのか、勉強してほしいね。彼がスターになるためなら、いくらでも協力したいと思っているんだから」

 まさに専属ティーチャーから贈る言葉である。家庭では息子や娘を神宮球場に連れてくる良きパパであり、ユニフォームを着たら金髪先生。しかし、デシンセイは日本のストライクゾーンに悩み、一時打率.169まで急降下。それでも、やや復調した6月中旬には巨人戦で鹿取義隆から、広島戦で津田恒実から2試合連続のサヨナラホームランというさすがの勝負強さも発揮する。

クラブハウスで悔し涙も


開幕戦で東京ドーム第1号本塁打を放ち、ベンチ前でナインの祝福を受ける


 だが、開幕後も長嶋一茂人気は凄まじく、巨人のガリクソンは球場が突然大歓声に包まれ、日本のエンペラーでも来場したのかと思ったら、「代打・長嶋」が告げられただけというエピソードまで残っている。デシンセイにノーヒットの試合が続くと、神宮の自チームのファンから「オマエがいるから長嶋が出られないんだ」なんて英語の野次が飛んだ。その心ないひと言に元大リーガーは「実力がある選手と比べられるらまだしも、あんなルーキーと比べられて、そんなこと言われるなんて……」とクラブハウスで悔し涙を流したという。

 これには普段は明るい一茂も「ボクは実力がないから、試合に出られないのは当然」だと自身の置かれた複雑な立場をコメントしている。なにせ、守備が苦手な自分に三塁線寄りの打球を逆シングルキャッチするノウハウを直伝してくれた先生だ。デシンセイは前半戦終了時、18本塁打とまずまずの数字を残したが、関根監督は「時折見せる勝負強いバッティングはさすがと思わせるけど……。デーやんの力からすれば、まだ完全じゃないね」と後半戦の爆発を期待した。しかし、すでにデシンセイの腰は限界が近く三塁ではなく一塁スタメンも増え、8月23日の広島戦での出場を最後に腰の治療のため帰国。すでにチームは優勝争いから脱落しており、若手に切り替え三塁で一茂が起用されることも増えていた(背番号3はルーキーイヤーに4本塁打を記録)。

 デシンセイの88年最終成績は84試合で打率.244、19本塁打、44打点、OPS.800。時折、往年の打球スピードを披露して球場を沸かせたが、来日時の「自分にとっては最後の野球人生」の言葉どおりに、この年限りで現役を引退した。なお、デシンセイのトレードマークはグラブの上に装着している“リスト・プロテクター”で、大リーグ時代に強い打球が左手首付近に直撃した経験からつけるようになったという。グラブの内側から、薄い皮を約10センチほど垂らし、リストバンドで巻き込んで手首を保護するこだわりの一品だ。しかも特許を取得しており、本人の許可なしでは使えない。

 なお、ちゃっかり、その特製リスト・プロテクターをひとつ貰った唯一の日本人選手が、22歳の長嶋一茂である。

文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM
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