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プロ野球20世紀・不屈の物語

「俺は巨人に勝てば気が晴れるんだ」元祖“酒仙投手”西村幸生の規矩/プロ野球20世紀・不屈の物語【1937〜44年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

さまざまな武勇伝



 ピッチャーが投手なら、エースは主戦投手になる。21世紀となり、まだ投手という言葉は使われているが、主戦投手となれば、なかなか目にすることはない。耳にする機会は、もっとないだろう。この言葉を聞いた20世紀のプロ野球を知るファンは、阪急の今井雄太郎を思い浮かべるかもしれない。ただ、今井は主戦というより“酒仙”。試合になると委縮する今井に梶本隆夫コーチがビールを勧め、これをひっかけてマウンドへ立つと好投、プロ初勝利を挙げて自信をつけ、およそ4カ月後、指名打者制で唯一の完全試合を達成したエピソードを持つ右腕だ。この21世紀、主戦投手が死語になりつつあるとしたら、“酒仙投手”は絶滅危惧種のようなものだろう。もちろん、“飲酒登板”を推奨するものではないので念のため。

 主戦投手という言葉が一般的だった時代、“酒仙投手”を定着させた(?)右腕がタイガース(阪神)にいた。すれ違っただけで酒臭かったというから、ビールをコップ1杯という今井のレベルを超えていたのだろう。日米野球で全国に名を轟かせた巨人沢村栄治が球界の中心にいた時代。その沢村に激しいライバル心を燃やした西村幸生だ。沢村と同郷だが、7歳上。プロ入りまで対戦の経験はないが、少年時代から豪快な逸話が残り、グラウンドに男がバイクで乗り込んできたとき、車輪を狙って球を投げてバイクごとひっくり返したという。

 経歴も異色だ。宇治山田中から愛知電気鉄道を経て関大へ。タイガース入団はプロ野球が始まって2年目の1937年だった。剛球の景浦将については紹介したが、西村は快速球で鳴らした沢村とは対照的に、それほど球速があるわけでもなく、変化球の種類も多いわけでもない。ただ、制球力と度胸は天下一品。相手の打ち気を見抜くことにかけては天才的で、1年目から春のリーグ戦で9勝、秋には15勝、防御率1.48で最優秀防御率に輝いた。

 翌38年の春も防御率1.53で、2季連続で最優秀防御率。タイガースも2季連続で優勝したが、37年の秋はイーグルスのハリスが、38年の春は東京セネタースの苅田久徳がMVPに。西村が一部の委員から反感を買っていたため受賞を逃したとも言われたが、当の西村は「余計な心配はいらない。俺は巨人に勝てば気が晴れるんだ」と言っていた。おそらく本心だっただろう。それはさまざまな武勇伝からも見て取れる。グラウンド外での逸話も多いが、とても書き切れない。ライバルの巨人ナインだけでなく、チームメートにも遠慮なし。監督までもがケンカ相手だった。

「弱い人をいじめてはいかんよ」


 近年よりも圧倒的に長幼の序列が厳しかった時代に、石本秀一監督にも“タメ口”で、門限にうるさい石本監督が消灯時間を過ぎても麻雀をしていたときには、部屋に殴り込んだこともあった。口グセは、「相手の欠点を狙って投げることは、ようせん」。石本監督の指示を無視して、打者の得意なゾーンで真っ向勝負。これで抑えたこともあったが、それが本塁打になることもあった。当然、石本監督は激怒するのだが、西村は「じゃあ、お前さん投げろよ」と言い放ったという。

 1シーズン制となった39年を最後に、「3年契約が切れただけ」と、あっさり退団。29歳という年齢もあったのかもしれない。関大でハワイ遠征に出たときに一目惚れして結婚した夫人には「一番いいときに惜しまれてやめるのが男の生き方だ」と語っていたという。そのまま満州(現在の中国東北部)へ移り、新京電電で1年だけプレー。44年3月に満州で応召、夫人に「子どもたちを頼むよ」と言って出征していったという。そして翌45年4月、フィリピンで戦死した。

 タイガースでの武勇伝の一方で、ひとたび家に戻ると、物静かな男だった。子どもには、「いいかね、自分より力のない人、弱い人をいじめてはいかんよ。目上の人、力の強い人を怖がってはいかんよ」と言い聞かせていたと伝わる。さまざまな立場の違いに、しばしば人は翻弄される。戦前や戦中は、それが命をも左右することもあっただろう。そんな時代にあって、西村が貫き通した規矩を、あらためて説明するまでもない。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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