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プロ野球20世紀・不屈の物語

“スクール・ボーイ”の快進撃、沢村栄治、みたび戦地へ/プロ野球20世紀・不屈の物語【1934〜44年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

ソロ1点による惜敗



 この連載でも、たびたび名前が登場してきた巨人の沢村栄治。20世紀を知る古いプロ野球ファンにとっては、あらためて説明することもないかもしれないが、まずは駆け足で、その栄光の軌跡を振り返ってみたい。三重県の宇治山田市(現在の伊勢市)生まれ。体が弱かったが、それを心配した父親に、なかば強制的に野球をやらされた。本気で野球に向き合うようになったのは明倫小4年のときだという。そこから暇さえあれば炭で的を書いた壁にボールを投げるようになり、やがて近所の友人を捕手に仕立てて投げ始める。5年になると、すでに誰よりも速い球を投げていた。

 全国少年野球大会での投球が注目されて京都商へ。甲子園にも3度の出場。浮かび上がるような快速球、落差の大きなドロップは別次元のもので、第2回の日米野球を企画していた読売新聞に注目される。文部省が学生スポーツとプロの対戦を禁止していたため、沢村は京都商を中退。プロへの道を歩み始めた。全18試合が開催された日米野球だが、日本は0勝18敗。それも、ほとんどが一方的な完敗だった。唯一の例外が草薙球場での一戦。ルー・ゲーリッグ(ヤンキース)のソロによる1点のみによる惜敗だった。

 このとき完投したのが沢村だ。まだ17歳。その活躍は全米でも報じられて、“スクール・ボーイ”と話題に。そのまま巨人の前身、全日本東京野球倶楽部の結成に参加した沢村は、第1次アメリカ遠征で21勝8敗、日本での巡業では22勝1敗と投げまくり、勝ちまくった。第2次アメリカ遠征では11勝11敗。のちに沢村の、特に速球の全盛期は全日本の時代だったのではないかとも言われたが、そこで酷使があったのは間違いないだろう。

 1936年、プロ野球がスタート。巨人はアメリカ遠征から帰国して夏からプロ野球に合流した。たとえ全盛期を過ぎていたとしても、沢村は秋にプロ野球で初のノーヒットノーランを含む13勝で最多勝。翌37年の春に巨人は全56試合を戦って41勝13敗2分でリーグ優勝を飾っているが、沢村は2度目のノーヒットノーランを含む24勝、防御率0.81で最多勝、最優秀防御率の投手2冠。30試合の登板でリーグ最多の196奪三振というのも圧巻だ。そこまでは順風満帆。不屈の精神を発揮する機会もないほど順調だったと言っていいだろう。このとき20歳。まだ若い沢村だったが、そこから早くも失速していく。原因は明確だった。

ラストシーンの舞台はマウンドではなく


 プロ野球の選手が失速する原因は多様であり、ひとつに断定できない場合も多いが、沢村の場合は分かりやすい。戦争だ。ライバルのタイガースから徹底的に研究され、不本意な結果に終わった37年の秋を最後に、応召。マラリアを患い、左の掌を撃ち抜かれ、手榴弾を投げて肩とヒジを壊した。40年に復帰、プロ野球の最多タイとして残る3度目のノーヒットノーランを達成したが、巨人の全104試合のうち12試合の登板で7勝、わずか31奪三振。投球術だけは健在だったが、3年前までの輝きは完全に失われていた。

 やや復活の兆しを見せ、9勝を挙げた41年オフに2度目の応召。43年には復帰したが、投手としては4試合に登板したのみ。左足を高々と上げる豪快なフォームではなく、サイドスローからの苦しい投球だった。最後のマウンドでは3回までに被安打2、与四球8で5失点。代打で三邪飛に倒れたのが、結果的にラストシーンとなった。巨人の戦力不足も深刻だったが、そのオフに解雇。他チームへの移籍を考え、日米野球の実現に奔走した鈴木惣太郎に相談すると、「巨人の沢村で終わるべきではないか」と言われ、引退を決意した。解雇されたことは最後まで家族には言わなかったという。

 44年11月、みたび兵役へ。このとき27歳。そして、沢村の乗る輸送船は魚雷を受け、海に消えた。45年は休止を余儀なくされたプロ野球だったが、戦後、46年にペナントレースは再開される。沢村の背番号14も2人の選手が着けた。その業績が顧みられるようになったのは、47年シーズン途中に巨人の黒沢俊夫が急死したことが契機だ。巨人の背番号14は永久欠番となり、沢村賞が制定された。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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