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プロ野球20世紀・不屈の物語

「もう1度、三冠王を獲る」落合博満、打撃2冠という“無念”/プロ野球20世紀・不屈の物語【1989〜90年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

大騒動を経て中日へ



 中日で初めて優勝を経験するまでの落合博満について、これまで3度にわたって紹介してきた。ロッテで2年連続を含む3度の三冠王。最初の三冠王のときは数字が低いことで批判を浴びた。3年ぶり2度目は「3つ狙う」と宣言しての有言実行。2年連続の三冠王も、やはり開幕を前に明言し、それを実現させたものだ。プロ野球で初めて1億円プレーヤーにもなった。そんな全盛期に、移籍を志願。大騒動を経て、1対4のトレードで中日へ。だが、日米野球で打撃の微妙ながら決定的な感覚の違いを経験したことで、両リーグにまたがる3年連続4度目の三冠王どころか、無冠。プロ10年目にして初めて優勝の美酒を味わったシーズンは、当時あった最多勝利打点には輝いたものの、2年連続で打撃3部門のタイトルを逃した不本意なものでもあった。

 そして、1989年。時代も平成となり、パ・リーグでは阪急がオリックスに、南海はダイエーとなって初めてのシーズンでもある。さまざまな時代の過渡期。落合は36歳になっていた。不老不死は人類の古くからの夢であり、幻だ。老いは遅らせることこそできても、止めることはできない。落合は「もう1度、三冠王を獲る」と、あらためて宣言した。もちろん、文字どおりの思いだけだったかもしれない。年齢を考えれば、この発言を無謀に感じた人がいたのも当然だろう。初めて三冠王に輝いたときのように、批判の背後に嫉妬のようなものが透けて見えることはなかった。落合も妬まれる存在を超え、あこがれを集め、後身が目標にするような存在になっている。

「もう1度、三冠王を獲る」。自らが下り坂に差し掛かっていることに気づきながらも、それを否定し、あらためて自らを奮い立たせるための宣言に聞こえたファンもいたのではないだろうか。落合の真意はともあれ、少なくとも、すこし前までできていたことが、いつしかできなくなっていた、という同世代の人には、落合の発言に自らを重ねた、あるいは励まされた人もいたことだろう。ファンと落合の関係も、確実に変わってきていた。だが、落合は早々に首位打者から遠ざかる。

 この89年シーズンは、同い年でもある巨人クロマティも、シーズン限りの引退と前人未到の打率4割を宣言して迎えていた。最終的には引退も打率4割もなかったが、背水の陣を敷いていたことは間違いなく、97試合目まで打率4割を維持して、最終的には打率.378。落合も打率.321と不調ではなかったものの、クロマティには遠く及ばなかった。本塁打と打点でも中日へ移籍して初めて大台を超えて、40本塁打、116打点。プロ野球で初めて両リーグ打点王にはなったが、わずか2本の差で本塁打王は逃した。

打撃2冠のオフに……


 Vイヤーから3年連続で全試合出場となった90年。年齢だけを考えれば、これだけでも立派な数字だ。ただ、落合が目指した頂は、この数字ではなかったはずだ。最終的には34本塁打、102打点で、セ・リーグで初の本塁打王、2年連続の打点王。だが、打率は2年ぶりに3割を切り、打率.290でリーグ13位。打撃2冠に終わり、悔しさだけが残った。

 いや、打撃2冠は、多くの打者が目指しても到達できない栄光であるはずだ。だが、すでに頂点を極めた落合という打者には、無念、あるいは屈辱の打撃2冠という表現になってしまうのだ。さらには、タイトルこそ獲得したものの、本塁打も打点も、前年より減らしていた。プロ12年目、37歳。落合しか知らない高き山の頂から、ゆっくりと下ってきているのは明らかだった。とはいえ、そこは落合。下り方も独特だった。そのオフ。推定年俸1億6500万円だった落合は、新たに3億円を希望。中日の提示は2億2000万円で、8000万円の開きがあった。翌91年の春季キャンプに入っても、まとまる気配はなし。年俸調停に突入した。

 この年俸調停は、選手と球団、互いの希望額を提示した上で、年俸の決定を第三者の判断に委ねるという制度。それまで72年オフに阪神のマックファーデンが踏み切ったことはあったが、日本人の選手としては初めてのことだった。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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