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プロ野球20世紀・不屈の物語

“暴れん坊”の斬り込み隊長、故郷の広島で初優勝の使者に。大下剛史の疾走/プロ野球20世紀・不屈の物語【1967〜78年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

日本ハム元年のオフに故郷の広島へ



“駒沢の暴れん坊”東映フライヤーズが、日拓を経て日本ハムファイターズとなり、東映カラーの払拭が図られたことは紹介している。球団が日本ハムとして生まれ変わるためには必要なプロセスだったのかもしれないが、東映を支えてきた“暴れん坊”たちにとっては受難だったことは確かだ。その筆頭格は、安打製造機の張本勲と、長距離砲の大杉勝男。まだまだ打棒は健在だったが、荒々しさも図抜けていた男たちだ。豪快な野球が長所だったが、それは言い換えれば、大雑把な野球という短所でもあった。

 そんな東映で、抜群の野球センスで攻守走にわたって緻密なプレーを見せたのが大下剛史だ。ドラフト制度2年目、2度に分かれて会議が行われた二次ドラフトの2位で指名されて、駒大から1967年に東映へ入団。背番号1を与えられたことからも、期待の大きさが分かる。そして、これに大下は応えて、1年目から遊撃のレギュラーに定着した。巨人で黄金時代を築いた水原茂監督の就任7年目。そんな名将も「ウチのザル内野がアイツのおかげで変わった」と高く評価した。新人王こそ同じ2次ドラフト1位で15勝を挙げた高橋善正に譲ったものの、走っても28盗塁の活躍で、1年目からベストナインに選ばれている。安定感で異彩を放った大下だったが、おとなしい選手というわけでもなく、負けん気も抜群。コワモテぞろいの先輩たちとも堂々と渡り合って、“暴れん坊”の一角を担ったことも間違いなかった。

 だが、オフに水原監督が退任すると、チームは徐々に失速。これに映画産業の不況も重なり、東映が球団を手放したのは72年のオフだった。翌73年はパ・リーグ前後期制1年目。チームは日拓として再出発したものの、前期5位、後期3位でシーズン通算5位。そのオフには早々に日本ハムとして生まれ変わったが、前期、後期ともに最下位、もちろんシーズン通算でも最下位と、どん底の幕開けとなった。

 大下が大杉、白仁天らとともに球団を出ることになったのは、そのオフのことだ。ただ、この移籍は大下にとっては僥倖だったのかもしれない。新天地は故郷に本拠地を置く広島だった。まだ優勝の経験がなかった大下と、やはり創設から低迷を続け、その74年までは3年連続で最下位に沈んでいた広島。この2本の双曲線が初めて交わったことで、両者の悲願は同じものになった。

陰のMVP


 守備は大橋穣が入団したことで二塁へ回ったが、一貫してリードオフマンとして打線を引っ張ってきた大下は、迎えた75年、新天地で与えられた役割も変わらず。就任したばかりのルーツ監督は、走る野球を大下に託し、大下も開幕戦から本塁打を放って、チームを勢いづけた。ルーツ監督は判定を巡るトラブルを発端に辞任して、古葉竹識監督が後任となったが、信頼は変わらず。塁に出れば、ほとんどノーサインで走り、「逆に考えて走るようになった」と大下は振り返る。

 その走塁は、相手の投手を揺さぶった。投手は中軸の山本浩二衣笠祥雄の打席に集中できず、得点力は大幅アップ。守っても相手ベンチの様子をうかがい、監督の動きや表情を読み取って相手の作戦にも瞬時に対応する頭脳派ぶりで内野陣を引っ張った。二遊間を形成した三村敏之とは打順でも一、二番コンビを組んで、息もピッタリ。「2ストライクまで待て」「打っていいぞ」など2人だけのサインもあり、自身の盗塁は「三村が助けてくれた」と大下は語っている。自己最多の44盗塁で初の盗塁王に輝いたが、その約80パーセントは三村の打席で決めたものだった。広島も中日阪神との混戦を抜け出して、全130試合の129試合目に初のリーグ優勝。MVPは初の首位打者となった山本浩二だったが、大下は“陰のMVP”と評されている。

 78年オフに引退。指導者としてチームに残った。そして79年、広島は初の日本一に。そこから広島が“機動力野球”で黄金時代を築いていったのは決して偶然ではないだろう。妥協や甘えを許さないだけではなく、特に用具を大切にしないことに関しては厳しい“鬼軍曹”だった。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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