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プロ野球20世紀・不屈の物語

王からプロ野球新記録を決めると宣言したものの……江夏豊の“不覚”/プロ野球20世紀・不屈の物語【1968年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

「意気揚々とベンチに戻った」が……



 大洋(現在のDeNA)の平松政次巨人長嶋茂雄との名勝負については紹介したばかりだが、長嶋を牛耳った平松が、その長嶋と“ON砲”を形成する王貞治は苦手としていたことにも触れた。当時、巨人はV9という空前絶後の黄金時代、その真っただ中だ。平松は長嶋のライバルだったが、大洋は巨人のライバルではなかった。巨人のライバルといえば、やはり阪神だ。V9時代は、王者の巨人に立ち向かう挑戦者の阪神という構図。“伝統の一戦”にふさわしいゲームも多かった。

 阪神のエースは右腕の村山実で、ライバルは長嶋。“天覧試合”の因縁についても紹介している。一方、王のライバルは左腕の江夏豊だった。プロでは江夏が8年の後輩だが、年齢は12歳も差がある。V9の3年目に入団した江夏は、入団2年目の1968年、大先輩の村山から「長嶋は俺のライバルだから、お前は王をライバルにしなさい」と言われた。もともと王をライバル視していたわけではない。それどころか、「すでに王さんはリーグを代表する打者。まだ僕は若造でしたし、この人(村山)は何を言っているのだろうと思った」と江夏は振り返っている。ただ、「長嶋さんは渡さんぞ、という意思表示と、僕を(投手の)ライバルとして認めてくれたということなのかもしれないと思った」とも。1年目からリーグ最多の225奪三振。勢いに乗る若き左腕は、迎えた2年目、さらに加速していった。

 この時点のプロ野球記録は、稲尾和久(西鉄)のシーズン353奪三振。これを確実に更新するペースで三振を奪いまくった江夏は、「(新記録は)王さんから決めたい」と公言する。20歳になったばかりの若者らしい気負いに、運命は味方した。いよいよというタイミングで回ってきたのが9月17日の巨人戦(甲子園)。1回表から3回表まで2三振ずつ奪った江夏は4回表、この日8個目の三振を王から奪取した。江夏は振り返る。「これで新記録だと思い、私は意気揚々とベンチに戻った。ところがバッテリーを組んでいた“ダンプ”辻(恭彦)さんから『まだタイ記録だぞ』と言われたのである」。

 弘法にも筆の誤り、という。難しいことは分からないが、空海のような書の達人でも書き間違えることがある、と習った覚えがある。ただ実際は、書き間違えることよりも、うっかり筆を忘れたり、墨を擦ろうと思ったら水がなかったり、得意の分野に至る以前のところでつまずく達人のほうが多いのではないか。まさに江夏も、そのパターンだった。

「ひとつ間違えれば……」


王から三振を奪い、シーズン最多奪三振を達成した


「恥ずかしながら、単なる自分の計算間違い」(江夏)で、王から稲尾と並ぶ353個目の三振を奪ってしまった江夏。有言実行には、次に王の打順が回るまで1三振も奪ってはならないのだ。試合は巨人と優勝を争う天王山。三振を奪わない以上に、どんな打者でも抑えることが至上命題だった。「よく自分でも、そんな考えに至ったと思う」というが、江夏の短くも長い旅が始まる。相手は下位打線だ。打者が手を出しやすい真ん中の低めに制球して、凡打の山を築いていく。そんな江夏に立ちはだかった(?)のは、投手の高橋一三だった。江夏は早くも2ストライクと追い込んでしまう。そこから、やはり低めで二ゴロ。どうにか8人の打者から三振を奪わずに抑えて、そして7回表、打席に王を迎えた。

「私は全力で王さんに向かっていった。ストライク、ファウル、ボール。王さんも分かっていたはずで、屈辱的だったかもしれない。それでも真剣に勝負してくれた。4球目、アウトハイに真っすぐを投げると、王さんは空振り。ひとつ間違えればスタンドまで持っていかれた、すさまじいフルスイングだった」(江夏)

 江夏は南海を経て広島でセ・リーグへ復帰してからも王と対戦している。12年で通算258打数74安打、20本塁打、57三振、57四死球、打率.287。ほぼ互角といえる結果が残っている。74年に唯一の死球があるものの、両者とも、この死球のことは覚えていないという。江夏にとって、もっとも三振を奪った打者も、もっとも本塁打を許した打者も、王だった。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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