週刊ベースボールONLINE

伊原春樹コラム

福本豊の盗塁の極意、上田利治監督のがなり声…阪急ブレーブスの思い出/伊原春樹コラム

 

月刊誌『ベースボールマガジン』で連載している伊原春樹氏の球界回顧録。2020年5月号では阪急ブレーブスに関してつづってもらった。

阪急の日本シリーズで印象に残っている試合


阪急・上田利治監督


 子どものころ野球に興味を持ち始めて、ひょんなことから南海ファンとなった私はそのとき阪急ブレーブスというチームがあることを知った。だが、広島の片田舎で、ましてやパ・リーグ。阪急の選手を見るとしたらニュースでちょこっと目にするくらいだった。その後、私も芝浦工大に進学してからはプロを意識するようになったから、プロ野球もよく見るようになっていた。当時は西本幸雄監督がチームを率い、黄金時代を謳歌していた阪急。日本シリーズに南海が出場することがなかったから、パ・リーグを応援していた私としては自然と阪急に肩入れして試合を追っていた。

 巨人のV9時代。1967年から69年に阪急はパ・リーグを3連覇したが、すべて2勝4敗で巨人に敗れ、悔しい思いをした。その間で最も印象に残っているのは69年の日本シリーズ第4戦(後楽園)だ。阪急が3対0とリードして迎えた4回裏、土井正三さんと王貞治さんの連打で無死一、三塁とチャンスをつくった巨人。続く長嶋茂雄さんは三振に倒れたが、このとき一走・王さんと、三走・土井さんがダブルスチールを敢行した。捕手の岡村浩二さんは二塁へ送球したが、二塁手の山口富士夫さんは三走がスタートを切ったのを見るや、すぐに本塁へ返球。岡村さんの好ブロックで、土井さんは完全なアウトに見えた。ところが、岡田功球審の判定は「セーフ!」。テレビで見ていた私も思わず「ウソだろ!」と声が出たが、当事者も怒り心頭。岡村さんが岡田球審のパンチを浴びせて退場になってしまった。

 退場者が出たのは、日本シリーズ史上初めてのことだったという。その後、巨人は安打を連ね、この回、一挙6得点で逆転し9対4で勝利をつかんで3勝1敗と王手をかけた。「絶対にアウトだった」と私は心にモヤモヤを抱いたが、翌日にはその思いも吹っ飛んだ。新聞各紙には土井さんの足がしっかりとホームに触れている写真が掲載されたのだ。「プロの審判はやはりしっかり見ているな」といたく感心したことを覚えている。

福本さんに聞いた盗塁の極意とは?


阪急・福本豊


 71年、私はドラフト2位で西鉄に入団した。当時、西鉄は黒い霧事件が起こり、戦力はガタ落ち。王者・阪急との力の差は歴然だった。同じ土俵で戦ってはいたが、相撲にたとえれば向こうは横綱で西鉄は十両。まさにテレビで見ていた選手との戦いに圧倒された覚えがある。一番は“世界の盗塁王”の福本豊さん。体は小さいが形がずんどうで太い、いわゆるツチノコバットを使い、時に一発もスタンドに叩き込む。四球で塁に出ればすかさず盗塁で二塁へ進む。西鉄の投手陣は力が落ち、初回から送りバントなどはめったにない。二番打者が強攻し、最低でも進塁打で福本さんが三塁へ進み、三番の加藤秀司が犠飛を打ち上げノーヒットであっという間に1点を奪われてしまう。「野球のレベルが違うな」と何度も思わされたものだ。

 そういえば西宮球場のヤジも思い出す。西宮球場は雰囲気が良く、嫌な印象はまったくない。近鉄の本拠地だった日生、藤井寺球場とは客の質が違った。近鉄ファンはきつい河内弁で「アホンダラ、アホンダラ」の連発。しかし、西宮球場の阪急ファンは柔らかい関西弁のヤジだ。例えば福本さんがランナーに出ると「フクさん、もうええやろ。堪忍してやれや」とくる。西鉄相手にかわいそうだから、武士の情けでもう走らなくてもいいだろうということだ。しかし当然、福本さんはおかまいなしにシュッと走る。すると、西鉄ベンチに向かって「勘弁な!」。「おもしろいことを言うな」と思ったものだ。

 福本さんと言えば私が守備・走塁コーチになったとき、盗塁の極意を聞いたことがある。そのとき返ってきた答えは「目や、目や」。その意味をしばらく考えたが、私が思い至ったのは、やはり「目でしっかりと相手のクセを見抜くこと」。一流のシンプルな言葉の中にある真実は深いと感じた。

 当時の四番・長池徳二さんの打撃も強い印象が残る。アゴを肩に乗せる独特のフォームから通算338本塁打をマークした長距離砲で内角打ちには定評があった。確か京都での試合だったと思うが三輪悟さんの内角高めのシュートをうまく打って左翼席に叩き込んだ本塁打には度肝を抜かれた記憶がある。普通なら切れてファウルになるコースだ。ただただ感心するばかりだったが後年(85年)、永池さんは西武で打撃コーチとなり、秋山幸二を指導する風景を見て、内角打ちが強かった一端が垣間見えた。

 長池さんは試合前、室内練習場でひたすら内角高めを打たせていた。おそらく、そこが打者にとって打つのが最も難しいコース。そこを克服すれば鬼に金棒という考えだったのだろう。秋山に徹底して教え込んでいた。余談だが、長池さんは85年のみで西武から離れたのだが翌年、清原和博が入団。もし、長池さんが打撃コーチとして清原を指導していたら内角打ちを完璧にマスターして、“無冠の帝王”で終わらずに本塁打王のタイトルを獲得していたかもしれない。

 投手陣も豪華だった。“史上最高のサブマリン”山田久志とは同級生。「負けられるか」という思いが強かったが、通算で3本しか放っていない。アンダースローでは足立光宏さんもいた。コントロールが抜群だった。それと“ガソリンタンク”米田哲也さん。通算350勝をマークしたレジェンドだったが、とにかくシュートがえげつなかった。球質も重い。いつも詰まらされて打球が飛ばなかった記憶しかない。

 山口高志も鮮烈だった。体は小さかったが、上から投げ下ろす剛球は迫力といったらなかった。ブワーンと音を立ててズドンと捕手のミットに収まる。低めに来ず、胸元あたりのボール球ばかりだったがどうしても手が出てしまう。それにプラスして落ちる球もあった。攻略はなかなか困難な投手だったのは間違いない。

球場に響き渡っていた上田監督のがなり声


阪急・長池徳二


 晩年の梶本隆夫さんとも対戦した。186センチの長身からムチのように腕をしならせ快速球を投げ込んだが、57年には9連続三振の日本記録も作っている。梶本さんで記憶に残っているのは私の新人時代だ。71年10月3日、西宮球場での一戦。4対5と西鉄がリードを許していた9回表、先頭で打席に入った私は左翼席へ同点本塁打を叩き込んだ。プロ2本目の本塁打。しかも大投手から打つことができ、非常にうれしかったが、実はこの試合、梶本さんの通算250勝がかかっていた。私の一発で大記録が消えてしまい、ダイヤモンドを一周する間、阪急ベンチから「余計なことをしやがって!」と怒声を浴びたことを思い出す。

 西武で私がコーチを務めていたとき、高知・春野で春季キャンプを張っていた。阪急も高知で春季キャンプを行っていたが、練習が休みのとき、思い立って阪急がキャンプ地を訪れたことがある。球場に着いて、スタンドへ続く階段を上がっていくと、マイクから発せられたがなり声が聞こえてきた。上田利治監督だった。ちょうどチームプレーをやっていたが、マイクを握って陣頭指揮。「おいおい、何をやっとんじゃ!」「セカンド、もっと早く前に出て来いよ!」など、選手の一挙手一投足に目を光らせていた。

 西鉄が太平洋クラブ、クラウンライターを経て西武になると阪急とはよきライバル関係となった。だが、88年にオリックスへ身売り。われわれも親会社が変わる経験をしたが、あの阪急が同じような形になり、少し寂しい思いをしたのは確かだ。オリックスになってからも西武、近鉄と三強を形成して切磋琢磨していった。しかし、オリックスは近鉄との球団合併を経て、なかなか浮上のきっかけをつかめていない。私も2004年に監督を務めたが、あの強かった阪急の後継球団であるオリックスにはなんとか頑張ってもらいたい思いがある。“勇者の魂”だけは忘れないでほしい。

写真=BBM
週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部が今注目の選手、出来事をお届け

関連情報

みんなのコメント

  • 新着順
  • いいね順

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング