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プロ野球20世紀・不屈の物語

小久保裕紀、最大の“天国と地獄”/プロ野球20世紀・不屈の物語【1998〜99年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

最高の若手時代


ダイエー・小久保裕紀


 ホークスが南海からダイエーとなり、本拠地も大阪から福岡へと移転した前後のことについては、これまでも何度か紹介してきた。大阪での低迷は福岡へ移転しても簡単には脱却できなかったが、移転11年目の1999年にダイエーとなって初のリーグ優勝、そして日本一に。現在に続く黄金時代の始まりだった。ただ、その99年、初の快挙に迫るチームで、まるで蚊帳の外にいるかのように苦しんでいる男がいた。四番打者の小久保裕紀だ。

 侍ジャパンを監督として率いていた姿も記憶に新しい。21世紀になって生まれた若いファンにも、黄金時代を謳歌するソフトバンクを故障に苦しみながらもチームリーダーとして引っ張っていた印象があることだろう。それ以前には、不可解な無償トレードにより3年間、巨人でプレーしたこともあった。21世紀になってからの“天国と地獄”のインパクトに上書きされた感もあるが、この99年が最大の“天国と地獄”だったようにも思える。

 アマチュア時代はエリートコース。青学大では92年のバルセロナ五輪で学生では唯一、代表に選ばれて、銅メダル獲得に貢献。翌93年には主将として青学大を初の大学日本一に導いている。その秋のドラフトは、従来と大きく変わった。高校生ではない選手が希望する球団を選んで、その球団がドラフト会議で指名することによって選択が確定する、いわゆる逆指名制度が導入され、その新設された制度で小久保はダイエーを“逆指名”。ドラフト会議も無風だったが、それまでの、夢と現実の間で涙を流した多くの選手にとっては残酷なほど、小久保は順調に夢を現実にした。

 さらには、1年目から一軍に定着すると、2年目の95年には王貞治監督が就任。巨人でプロ野球記録の868本塁打を残した大打者による英才教育を受け、正二塁手の座を確保した小久保は本塁打王、続く97年には打点王に輝く。ダイエーの低迷は続いていたが、小久保は最高の若手時代を送っていた。だが、その10月、球界に大規模な脱税事件が勃発し、小久保も渦中の1人となる。これが“地獄”の始まりだった。

 その翌98年は、出場停止に加え、右肩の手術もあって、わずか17試合の出場に終わる。皮肉にもダイエーは初のAクラス3位に浮上。巻き返しを期した小久保は、オフには懸命のリハビリ、キャンプでは毎日の居残り練習、さらに早朝にも練習。チームに迷惑をかけた分、絶対に取り返す覚悟だった。だが、“地獄”は続く。

最大のスランプに陥った不動の四番打者


 迎えた99年のパ・リーグは大混戦。6月1日の時点では、6球団が2.5ゲーム差の中にいたが、ダイエーは初めて前半戦を首位で折り返す。ホークスとしては33年ぶりの快挙だった。ただ、小久保は前半戦を打率2割に届かず終える深刻なスランプ。それでも打順は四番だった。小久保は王監督に四番を外してもらうよう直訴するも、却下。小久保に求められたのは、四番打者として打線の中心に座りながら、自らスランプを乗り越えることだった。送りバントも辞さず、チーム打撃に徹し続けた小久保の復調はシーズン終盤。小久保の本塁打が増えると、チームのマジックは減っていった。

 そしてマジック2で迎えた9月25日の日本ハム戦(福岡ドーム)。小久保の同点ソロもあり、ダイエーは初のリーグ優勝を決める。小久保は男泣きに泣いた。

 ただ、四番打者としては不本意な成績なのも事実だ。屈辱の思いも残った。だが、やや逆説的ながら、小久保が屈辱の2年間を経験せず、順調のままだったとしたら、ダイエーは単発の優勝で終わっていたようにも思える。翌2000年、小久保は選手会長にも就任。逆境を乗り越えた四番打者、そしてチームリーダーの存在は、黄金時代の起爆剤だったはずだ。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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