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プロ野球20世紀・不屈の物語

90年代“最強のエース”斎藤雅樹、絶頂と最後のベストピッチ2試合/プロ野球20世紀・不屈の物語【1989〜2000年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

長嶋監督に忘れられた? “10.8”



 1989年に11連続完投勝利を含む20勝、防御率1.62で最多勝、最優秀防御率の投手2冠、沢村賞にも選ばれ、その勢いのまま90年代に突入した巨人の斎藤雅樹。初めて開幕投手を任された翌90年にも20勝、防御率2.17で投手2冠、MVPに輝いて、巨人のリーグ連覇に大きく貢献した。ただ、日本シリーズの成績は芳しくない。89年こそ1勝1敗、巨人は3連敗の後に4連勝で日本一に立ったものの、90年は西武に1勝もできず、4連敗の完敗だった。

「疲れです。シーズンだけで燃え尽きてしまうんですよね」と斎藤。その言葉が間違いないのは数字を見れば分かる。シーズンの黒星は、89年が7敗で勝率.741、90年が5敗で勝率.800と、2年連続リーグトップ。圧巻の2年だった。だが、のちに自身がベストピッチと振り返る2試合は、このキャリアハイといえる2年間のものではない。

 その翌91年は11勝。「いろいろ言われたけど、僕の中では、これが普通、というのもありました。そうそう20勝なんてできるか、11勝してるんだからいいだろう、って。どんどん給料は下がっていきましたけどね(笑)」と言うが、それでも続く92年には17勝で最多勝に返り咲いている。やはり黒星は6敗にとどまり、勝率.739もリーグトップだった。そのオフには恩師の藤田元司監督が退任し、長嶋茂雄監督が復帰。その翌93年は3年ぶりに開幕投手を任されて勝利投手となったが、肩の故障もあって9勝に終わる。

 復活を期した94年には因縁の(?)落合博満がFAで中日から加入。斎藤は2年連続で開幕のマウンドを託された。その開幕戦を前に、落合は斎藤に「打線は5点を取る。お前は完封しろ。それで5対0で勝とう」と声をかけたという。だが、結果は11対0。打線の爆発は落合の想定を超え、斎藤も完封で幸先のいいスタートを切った。この94年の最終戦こそが、斎藤がベストピッチに挙げるゲームだ。ただ、先発完投のイメージが強い斎藤だが、この試合はリリーフ。巨人と中日が、プロ野球で初めて同率首位のまま最終戦で激突する、いわゆる“10.8”だ。

 舞台は敵地のナゴヤ球場。当時、巨人は槙原寛己、斎藤、桑田真澄が“先発三本柱”と言われ、この3人のリレーに長嶋監督は懸けた。長嶋監督は前日、槙原に「まず先発で行け」、桑田に「明日はしびれる場面で行くぞ」と次げたが、斎藤は「僕は呼ばれた覚えがないんですよね」と笑う。2日前に先発していたこともあり、気楽な気持ちで球場に入ったという。

敗れたベストピッチ


“10.8”当日。斎藤は「何かあったら2番手で行く」と言われて、左腕の宮本和知とブルペンへ。だが、早くも2回裏に先発の槙原がつかまり、斎藤に声がかかる。「止めたバットや落ちたバットに当たったようなヒットが続いていたんですよ。明らかにムードが悪い。イヤだから聞こえないフリをしていました(笑)」と斎藤は振り返っているが、いざマウンドに立つと、気迫あふれる投球でピンチを切り抜け、試合の流れを引き戻した。そして5回1失点で桑田にマウンドを託し、勝利投手に。長嶋監督は「この試合で一番の功労者」と斎藤を称えた。

 斎藤は翌95年から2年連続で最多勝。開幕戦でも96年まで3年連続で完封と盤石だったが、この96年に2度目のベストピッチを迎える。それがオリックスとの日本シリーズ第1戦(東京ドーム)だ。だが、先発した斎藤は7回1/3を投げて3失点。試合は延長10回表、イチローの決勝ソロでオリックスが勝利したが、斎藤は「負けたけど、僕の中では現役最後のベストピッチでした」という。

 その翌97年は肩痛で6勝。「引退したほうがいいのではないか」と悩んだ。10勝を挙げた98年が最後の2ケタ勝利。2000年は左足ふくらはぎを痛めて、一軍に復帰したのは8月に入ってからだった。それでも緩急を使った新境地の投球を見せて、ダイエーとの日本シリーズ第4戦(福岡ドーム)で勝ち星を挙げたものの、この試合を終えると、長嶋監督に引退を申し入れる。このときは慰留されてプレーを続けたが、翌01年オフに現役を引退した。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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