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プロ野球20世紀・不屈の物語

“二郭一荘”の時代。郭源治、郭泰源、そして荘勝雄/プロ野球20世紀・不屈の物語【1981〜97年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

「すごく貧乏。学校へも裸足です」



 1980年代の助っ人は、打者が主流だった。投手では巨人ガリクソンサンチェ阪神にはゲイルやキーオらがいたが、やはり少数派だ。三冠王に輝いたのが阪急のブーマーと阪神のバース。インパクトでは巨人のクロマティも負けていない。現役バリバリのメジャー・リーガーだったヤクルトのホーナーは1年で去ったが、そのパワーは別格だった。いずれも野球の本場アメリカからやってきた強打者だ。そんな時代にあって、打者でもなく、アメリカ出身でもない男たちが、日本のプロ野球に強烈な印象を残した。“二郭一荘”といわれた3人の投手。台湾からやってきた中日の郭源治、西武郭泰源、そしてロッテ荘勝雄だ。

 この3人のうち最初に来日したのは郭源治で、兵役の影響もあって81年7月の入団だったが、その先鞭をつけたのは同じく投手の李宗源、のちに帰化して三宅宗源。79年にロッテの練習生となっており、このとき郭源治も一緒に誘われて入団する可能性もあったが、後から誘った中日のほうが熱心で、条件もいい。近年こそインターネットなどで海外のプロ野球は身近な情報になったが、もちろん当時は、そんな便利なツールはない。郭源治も、郷土の英雄として巨人の王貞治を知っている程度だったという。

 90年代に入り、日本からも近鉄の野茂英雄を皮切りに若者たちが次々にメジャーを目指したが、彼らのパイオニア精神とは少し色あいが異なる。「すごく貧乏。学校へも裸足です」という少年時代を過ごした右腕は、「このまま台湾にいても自分の人生が見えてしまう。それに僕、挑戦したかった。お金、欲しかったですからね」と、中日への入団を決めた。「もし僕がダメだったら、台湾の選手はダメ、と言われてしまう。失敗はいけない。日本に行くこと、そこで成功することが僕の使命だった」とも語る。

 来日の前年、80年には南海に投手の高英傑、捕手の李来発が入団していたが、そろって外野手に転向し、2人で外国人枠と定位置を争うなど、台湾の選手が日本でプレーする環境は整っていなかった。言葉の壁にもぶつかる。「特別扱いされたくなかった。通訳も断った。僕は人生を懸けて来た」と気負ってはみたが、「無口と言われた。当たり前よ、日本語しゃべれないんだからね(笑)」。それでも徐々に日本へ溶け込み、成績も上向いた。3年目の83年から4年連続2ケタ勝利。そんな中、85年に来日したのが郭泰源と荘だった。

「あの年は10年分くらいの経験をした」


西武・郭泰源


 郭泰源は84年のロサンゼルス五輪で銅メダル獲得に貢献して“オリエンタル・エクスプレス”と呼ばれたこともあり、来日の経緯は郭源治に比べればエリートコースと言っていいだろう。1年目からノーヒットノーランを含む9勝を挙げたが、それでも「あの年は10年分くらいの経験をした。日本語も分からないし、毎日が大変」と振り返っている。

 そんな郭泰源にライバル心を燃やしたのが荘。“二郭”とは対照的に技巧派で、開幕から12試合、57イニング連続で被本塁打ゼロという好スタートを切り、いきなり2ケタ11勝。チームには三宅もいたが、日本での生活に慣れるために当初は二軍の合宿に住むことを希望したという。2年目の86年には、奇しくも2人そろって抑えに役割を変えたが、1年で先発に戻っている。

ロッテ・荘勝雄


 一方、郭源治が抑えに回ったのが翌87年だった。先発でメンタルの弱さが指摘されることが多く、抑え転向も疑問視されたが、これが大成功。郭泰源は「投げるか投げないか分からないのは精神的にしんどい」と語るクローザーの役割で、郭源治の眠っていた闘志に火がついた。別人のように感情をあらわにするようになり、2年連続で最優秀救援投手、88年にはリーグ優勝を支えてMVPに。郭泰源も黄金時代の西武で先発の軸となり、91年にMVPとなっている。

 90年代に入り失速した荘は96年からロッテのコーチに。その96年オフに郭源治、翌97年オフには郭泰源が引退して帰国したが、郭源治は台湾でプロに復帰して、43歳となる99年まで投げ続けた。最後まで球速は140キロ台の後半をマークしていたという。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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