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プロ野球20世紀・不屈の物語

42年前の今日、7年間で6勝の右腕が完全試合。覚醒を呼んだ”秘密兵器”/プロ野球20世紀・不屈の物語【1978年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

1年目は防御率67.50



 プロ野球に限らず、適度な緊張感は成功に不可欠なものだ。厄介なのは、この「適度な」という部分だろう。緊張感が足りないことは怠惰を呼び、事故にもつながりかねない。一方、緊張感が過ぎることは委縮を呼び、実力のすべてどころか、その片鱗すら発揮できずに終わる。委縮するあまり、事故を起こしてしまうことだってありそうだ。ひとたび失敗してしまうと、その経験が一層の緊張を呼び、不安を招き、ますます委縮するという悪循環に陥る。どれほど準備は万端、体力は万全でも、こうした負のスパイラルから抜け出すことは容易ではない。それどころか、生命の危機と隣り合わせの環境で精神を鍛錬してきたとしても、こうした悪循環は顔を出すらしいのだ。

 阪急の今井雄太郎は新潟県の出身。中越高を卒業して新潟鉄道局へ。トレーニングのかたわら、鉄道局の仕事をこなしていた。その仕事の中には、走っている貨物列車に飛び乗るという、アクション映画なら絵になりそうなものもあったという。ただ、列車に飛び乗ってからは、荷物を行き先ごとに分けるという地道な作業。アクション映画になりそうにないどころか、一歩でも間違えば命すら落としかねない過酷な仕事だった。いや、もし映画の撮影だったら失敗して大事故になっていたかもしれない。

 全国鉄道大会での活躍を認められて、ドラフト2位で1971年に入団したが、1年目から一軍のマウンドを経験した今井を襲ったのは、極度の緊張だった。初登板では二死しか奪えず、被安打5、5失点。1年目は、この1試合の登板に終わり、シーズン防御率67.50という数字が残った。この経験もあったのか、その後はブルペンでは好調でも、いざマウンドに立つと、実力を発揮できないことが続く。そのまま7年連続で一軍のマウンドには上がったものの、通算6勝8敗。迎えた78年、ついに崖っぷちに立たされた。

 ただ、少し結果が出ないだけでクビになるプロ野球の世界で、見方を変えれば、二軍やブルペンでの絶好調ぶりもうかがえる。未完どころか、ほとんど物語が始まらないまま終わりかけていた右腕だったが、運命が変わったのは5月4日の南海戦(大阪)だった。しかし、運命の歯車が回り始めたのは、少し時間をさかのぼった、阪急のキャンプだったのかもしれない。

高知の酒が快挙を呼んだ?


 阪急のキャンプ地は高知県。出身地の新潟も酒処だが、高知も負けず劣らずの酒処だ。しかも、高知の地酒は淡麗で辛口。ついつい酒量が増えていくタイプの酒で、飲み過ぎた今井は門限を破った挙げ句、よりによって間違えて上田利治監督の部屋へ入っていくという失態を犯してしまう。このときの今井が、上田監督の目にはマウンドで緊張に震える男とは別人に見えたことは想像に難くない。

 そして、前述の試合で先発のマウンドへ向かおうとする今井に勧められたのが1杯のビール。これを飲んでマウンドに立った今井は、そのまま8回の途中までを1失点に抑える好投を見せてプロ7勝目を挙げた。そこから快進撃は止まらず、その約3カ月後には早くも、投手ならだれもが夢に見るであろう快挙を達成する。ちょうど42年前の今日、8月31日のロッテ戦(県営宮城)だった。

 徹底的に低めを突いて凡打の山を築くタイプだが、逃げのピッチングではなく、常に真っ向勝負。そんな今井の持ち味がいかんなく発揮され、ちょうど100球で完投勝利。打者は27人で、3三振のみだったが、18のアウトは内野ゴロで奪って、無失点、そして1人の走者も出さず。75年に始まったパ・リーグの指名打者制では初の完全試合だった。結果的には、これが昭和の時代における最後の完全試合となり、投手が打席に入らない指名打者制の下では、21世紀の現在に至るまで唯一の完全試合でもある。それまでシーズン最多が3勝だった今井は、この78年に13勝。81年と84年には最多勝にも輝いている。

 ちなみに、今井にビールを勧めたのは投手コーチの梶本隆夫だったという。この梶本が紡いだ長い不屈の物語については、あらためて次回に紹介したい。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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