歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。 わずか1点差で7敗
ヤクルトの初優勝は1978年。2リーグ分立の50年にセ・リーグへ参加してから29年目のことだった。ただ、翌79年には一気に最下位へと転落。ふたたび優勝から遠ざかっていった。2度目の優勝は92年で、
野村克也監督の3年目だ。そこから“ID野球”は花を咲かせ、実を結んでいくことになるのだが、この間、13年。1人の選手、特に大学や社会人を経て入団した選手にとっては、そのキャリアを続けることが難しくなってくるほどの時間だ。この間にキャリアが重なってしまった選手は、やはり悲運だったといえるだろう。
83年に入団した“甲子園のアイドル”
荒木大輔は紹介したばかりだが、故障によって不屈の物語を紡いだ荒木も、この点でいえば幸運だったといえそうだ。そんな荒木のプロ初勝利を救援してアシストしたのが、このときのエースだった尾花高夫。PL学園高で甲子園の経験はなく、新日鉄堺を経てドラフト4位でヤクルトへ入団したのが、初優勝の78年だった。1年目から7試合に登板して救援で1勝を挙げたが、優勝に貢献したV戦士たちとは、少し立ち位置が異なるように思える。
阪急との日本シリーズでも登録メンバーに選ばれているが、登板はなし。優勝や日本一の経験はゼロでこそないものの、ほぼゼロという状態に近いだろう。ただ、そこから尾花は着実に力をつけていき、80年には
巨人キラーとしてブレークを果たす。だが、皮肉にもヤクルトは優勝から遠ざかっていき、尾花にも黒星が先行するシーズンが続いた。
象徴的だったのが82年だ。序盤から着実に安定感を増し、巨人の
江川卓、大洋の
斉藤明夫と防御率1位を争い、結果的には防御率2.60でリーグ3位だったが、とにかく白星が増えない。先発、救援と役割を問わず投げまくり、最終的には初の2ケタ12勝を挙げたものの、16敗と負け越した。ただ、21世紀に入って用いられるようになったクオリティースタート(QS)で見ていくと、少し見え方は変わってくる。QSは6回を超えて自責点を3までに抑えることだが、当時は先発すれば完投するのが当然と思われていた時代。7回を超えて自責点3に抑えて、勝ち星がつかなかった試合は14試合を数える。
うちヤクルトは勝った試合が1試合、敗れた試合も1試合。尾花に黒星がついたのは12試合もあり、そのうち1点差で敗れたのは7試合もある。打線の援護があれば20勝も夢ではなかったが、尾花は不満を口にするどころか、「打線がどうの、なんて言ったらバチが当たる」と語っている。だが、幸運の女神は尾花にほほえむどころか、突き放した。
不屈の現役生活が糧に
翌83年は11勝10敗で初の勝ち越し。以降3年連続で貯金を積み上げ、その翌84年には自己最多の14勝を挙げた。これは5位に沈んだヤクルトの51勝の中で、約27パーセントを占める。ただ、86年から3年連続でリーグ最多の黒星を喫して負け越し。88年はリーグ最多の232イニングに投げて、白星は9勝にとどまったが、防御率2.87はリーグ7位につけている。
さらに悲劇は尾花に襲いかかった。89年は11勝8敗と最後の2ケタ勝利、そして勝ち越しとなる。この89年は規定投球回に到達した投手では最下位となる防御率4.40というのも、なんとも皮肉だ。半月板の損傷、ヒザじん帯の断裂など故障との闘いもあった。91年までプレーをつつけたが、引退。その翌92年にヤクルトはリーグ優勝を飾り、その後は連覇こそ1度だけだが、90年代だけで4度のリーグ優勝、3度の日本一と、黄金時代を迎えたことも、ますます皮肉に見える。ただ、最後まで制球には狂いがなかった。通算2203イニング連続で押し出し四球ゼロ。これは現在も残るプロ野球記録だ。
最高の思い出として、自身は1勝に終わったがチームが優勝した78年を挙げた悲運のエース。報われたのは95年に
ロッテで指導者に転じてからだ。97年にヤクルトで優勝、99年からはダイエーの初優勝、日本一、リーグ連覇に貢献。通算112勝135敗と負け越したエースは、投手コーチとして“優勝請負人”に進化した。
文=犬企画マンホール 写真=BBM