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日本人メジャーの軌跡

ア・リーグ初の日本人選手に。単身で海を渡り夢を実現したマック鈴木/日本人メジャーの軌跡

 

村上雅則野茂英雄に続く日本人3人目のメジャー・リーガー3人目を紹介する。それが鈴木誠。マック鈴木のほうが、通りがいいだろう。マリナーズの一員として1996年7月7日、敵地でのレンジャーズ戦でデビューした。日本のプロ野球を介さない初の日本人選手となった。

高校を中退して渡米


マリナーズ・マック鈴木


 デビューは5点差をつけられた6回裏からの登板だった。この回は無失点に抑えたが1回1/3で2安打、2四球、1奪三振、3失点で、登板はこの1試合だけに終わった。

 メジャーに至るまで、鈴木は下積み生活をしてきた。兵庫の滝川二高1年時に傷害事件を起こし退学。父の勧めで1992年に渡米し、代理人の団野村氏が経営に参画していた1Aのサリナス・スパーズに職員兼練習生として入団。鈴木は主に球場で寝泊まりし、選手たちのユニフォームを洗濯し、クラブハウスの清掃をしながら球拾いや打撃投手をした。月給は約3万円だったという。高校時代の仲間が甲子園を目指して猛練習に明け暮れていたころ、鈴木はアメリカで違った挑戦をしていたのだ。

 当時スパーズの監督はダイエー(現ソフトバンク)で渉外担当などを経験していた古賀英彦だった。スパーズで鈴木は1試合、1イニングだけ公式戦に登板して無失点。190センチ超の長身から投げ下ろす150キロの速球が認められ、翌93年には同じ1Aのサンバーナディーノ・スピリットと契約。クローザーを務めて94年にはマリナーズ傘下の2Aジャクソンビル・サンズでプレーし、95年に3Aを飛び越えメジャーのマリナーズに昇格した。しかし、この年の登板はなく、メジャー・デビューは翌年に。ア・リーグ初の日本人メジャー・リーガーとなった。

 その後、マリナーズ、ロイヤルズ、ロッキーズ、ブリュワーズで登板。2000年にロイヤルズで先発陣の一員として8勝10敗、防御率4.34。通算では117試合に登板して16勝31敗、防御率5.72だった。さらに日本のオリックスや独立リーグ、台湾、メキシコ、ドミニカ共和国などに活躍の場を求めた。度胸と情熱で、野球をしたのだった。

 現在は、野球解説者や指導者として後進の育成に当たっている。ちなみにオフィシャルブログのタイトルは「まっく・すてっぷ・じゃんぷ」。日本人3人目のメジャー・リーガーになったが「みんなどんどん僕を抜いていく。マックをジャンプしていくので」とのことだ。(文中敬称略)

『週刊ベースボール』2020年9月14日号(9月2日発売)より

文=樋口浩一 写真=Getty Images
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