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球界の半沢直樹? 球団にモノを言うファンから大人気の「天才打者」とは

 

絶頂期のキャンプ前に……


中日時代の田尾


 現在放送されているTBS系日曜劇場『半澤直樹』が大人気だ。主人公の半沢のように自分の保身を考えず、毅然とした態度で組織に立ち向かう姿にあこがれを抱く視聴者は多いだろう。プロ野球の世界も一般社会と同様に、上司である首脳陣の意向に異を唱えると起用されなくなったり、他球団に放出されたりするケースが多い。その中で、ある球界OBは「長いものに巻かれない。あの人の生き方は半沢直樹と重なるよ」と懐かしんだ。中日、西武阪神を渡り歩き、天才打者と呼ばれた田尾安志だ。

 大阪出身の田尾は大阪・泉尾高、同志社大で投手と打者の「二刀流」で活躍し、1976年ドラフト1位で中日に入団。新人で開幕一軍を果たして代打で起用されていたが、目標はレギュラーを奪い取る事だったためある行動に出た。「二軍でやらせてもらえませんか」とコーチに志願してファームに降格。実戦経験を積むと、8月から一軍でレギュラーをつかみ、打率.277で新人王を獲得した。卓越したミート能力とバットコントロールは子どもたちのあこがれだった。82年から3年連続最多安打をマーク。打率.350をマークした82年はトップの大洋・長崎啓二に1厘差まで迫ったが最終戦・大洋戦で5打席連続敬遠とノーチャンスだったため首位打者獲得はならず。抗議の意味を込めて敬遠球を空振りして球場が大きな歓声に包まれた。
 
 ところが、主力として絶頂期の85年の春季キャンプ直前に、杉本正大石友好と交換トレード西武への電撃移籍を通達される。中日が先発投手を補強したかった事情もあったが、フロントが選手会長として「モノを言う」田尾の存在を煙たく感じたという見方が多かった。ただ、田尾にも言い分がある。活躍した他の選手の年俸アップを当時の球団社長に直談判したり、本拠地のナゴヤ球場で選手が停める駐車スペースにファンが簡単に入れるためトラブル防止の観点で改善してほしいと訴えたりしたことは、チームを思っての発言だった。

 この移籍劇は中日ファンの怒りを買い、トレード撤回を求めて署名活動が行われる事態に、だが、恨み言を一切言わず中日を去った田尾。後年、「当時は器の大きい人たちに言っているつもりだったんですが、後になってそこまで器の大きい人はいなかったと気付きました。ただ、彼らの立場は強くなかっただろうし、もう少し言い方を変えれば良かったかなという自分なりの反省はあります」と語っている。

西武時代の田尾


 西武に移籍初年度のリーグ優勝に貢献したが、翌86年に新監督に就任した森祇晶監督が、一塁・田尾、三塁・清原和博、中堅・秋山幸二の構想を練ると田尾は反発した。「清原三塁案に対して僕は『それはいいことだと思いません。清原の一番得意なポジションは一塁でしょう。そこをまず守らせてみて、この動きなら三塁もこなせると判断をしてから一塁に代えても遅くないのでは。3つのポジションよりは、1つのポジションで“冒険”したほうがいいんじゃないですかね』と意見したんです」。この態度が森監督の不興を買ったのかスタメンでの出場機会が減り、同年オフに阪神へ2度目のトレードに。実は、これは田尾が根本陸夫管理部長に直訴して実現した移籍だった。

「勝つための野球をするべき」


阪神時代の田尾


 新天地の阪神でも首脳陣に自分の信念をぶつけた。88年に低迷するチーム事情で若返りを図る村山実監督に対し、「勝つための野球をするべき」と訴えた。村山監督との確執でベンチを温める日々が続いたが、天才と評された打撃センスはさびついていなかった。シーズン4本塁打のうち、第1号は代打本塁打、第2号はサヨナラ本塁打、第3号はサヨナラ満塁本塁打、第4号は代打サヨナラ本塁打。90年に119試合出場で5年ぶりに規定打席到達で打率.280と復調したが、91年は視力の悪化により打率.155と振るわず同年限りで現役引退した。

 プロ通算16年間で1683試合出場、打率.288、149本塁打、574打点。1560安打を積み上げたが、首脳陣との衝突がなければ名球会入りの2000安打を達成できたかもしれない。だが、選手たちも一目置く職人肌の打撃技術と、球団の上層部相手にも「言うべきことは言う」姿勢を貫いた生き様がファンの心をつかんだことは間違いないだろう。

写真=BBM
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