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平成助っ人賛歌

50歳超でも現役!? 小宮山悟も影響を受けたフリオ・フランコのプロ意識とは?/平成助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】

 

本当の年齢は……



 1995年7月21日、任天堂から『バーチャルボーイ』が発売された。

 赤いゴーグル型のディスプレイを覗き込みながら遊ぶ、早すぎた3Dゲーム機だ。伝説的ゲームクリエイター横井軍平氏が「任天堂退社前の置きみやげ」として世に送り出した問題作。すでにプレイステーションやセガサターンの鮮明なグラフィックが話題になっていた時代において、単色の赤色LEDによる赤と黒で表示される宇宙空間のようなゲーム画面は、前衛アートのような雰囲気すらあった。もちろん野球ゲームソフトの『バーチャルプロ野球95』も登場。当時、駅前のファミコンショップ店頭に置かれた試作機でプレーしたが、フィールドの奥行きに感動しつつも、守備時のボールが深夜の田んぼで草野球をしてるレベルで異様に見づらかった記憶がある。

 なお、バーチャルボーイ発売の10日前、海の向こうではロサンゼルス・ドジャースのルーキー野茂英雄がオールスター戦で先発登板していた。野球もゲームも時代の変わり目、トルネード旋風の一方で、前年から続いていたストライキの影響で大物大リーガーたちが続々とプレーする場所を求めて来日した。あのフリオ・フランコがロッテ入りしたのもこのシーズンだ。前年の94年はシカゴ・ホワイトソックスに所属し、8月にストライキでペナント中断するまでに打率.319、20本塁打、98打点と堂々たる成績。シルバースラッガー賞に5度も輝き、91年には打率.341で首位打者経験もある現役バリバリのメジャー・リーガーが、ボビー・バレンタイン監督が就任したロッテへ入団する。

 ちなみに年齢は当時の選手名鑑では61年生まれの34歳だが、のちに58年生まれに訂正(54年説もあり、それが本当ならば初来日時すでに40歳だったことになる)。球団史上最高額の推定年俸3億円という超大物だ。ピンクがキーカラーのマリーンズのユニフォームデザインを嫌がったり、小宮山悟がすでにつけていた背番号14にこだわる一面も(開幕前は4番、開幕後に21番に変更した)。スーパースター特有のワガママぶりが心配されたが、治安の良さやヘルシーな日本食を気に入り、95年元旦から家族で来日してローザ夫人とともに着物で初詣に出かけるほどの親日家。さらに90年オフの日米野球で当時西武秋山幸二清原和博のプレーを目の当たりにし、「いつかアキヤマやキヨハラとプレーしたい」と思ったという。フランコは日本球界を下に見て舐めるようなことは決してしなかった。

“フランコ効果”で2位に


内股で、バットのヘッドを投手方向に向ける独特の構え


 何百着というスーツを持つほどオシャレには気を遣い、「自分にとって球場は会社だ」と毎日スーツにネクタイ姿でスタジアム入り。しかも球団が用意したハイヤーを断り、日本語と日本の習慣に慣れるため他の助っ人選手たちと電車で通った。スーツに電車というジャパニーズサラリーマンスタイルを受け入れるフランコの食事はストイックで、アルコール類は口にせず、もちろんタバコも吸わない。タンパク質をよく摂取し、肉類も脂肪の少ない鶏肉しか食べない。もちろん煮たり、いためて温かい料理を口にすることを心がける。日本人選手が冷やし中華やそうめんを好んで食べることに、プロの選手としてはダメだと苦言を呈した。

 オフの食事は1日7回に分け、少量ずつ取り、消化をよくすることを心掛けて作り上げた自慢のハイブリッドボディ。まだ夜は飲んで遊んでチョメチョメの昭和の雰囲気が色濃く残る、平成前半の球界では珍しかった意識高い系野球選手でもあった。ユニフォームを着れば若手よりも早く球場入りしてウエート・トレーニングに励み、試合後もケガ防止のための入念なケアを怠らない。“二頭政治”と注目された広岡達朗GMとバレンタイン監督が練習法ひとつからぶつかり険悪な雰囲気になる中、フランコはプレーでナインを鼓舞し、序盤はオリックスイチローと首位打者争い。ちなみに当時から若き背番号51のプレーは外国人選手の間でも話題となり、西武のデストラーデは帰国時にユニフォーム交換を申し入れるほどだった。

 そんな「がんばろうKOBE」の申し子イチローの活躍でオリックスが優勝した95年、ロッテは10年ぶりの2位に躍進。フランコは四番打者としてチーム最多の540打席に立ち、127試合で145安打、打率.306、10本塁打、58打点、11盗塁、OPS.820という数字を残した。ホームランも少なく、前評判や年俸を考えると物足りなくも感じるが、当時の高沢秀昭打撃コーチは「(ロッテのAクラス入りは)フランコの教育が大きい。何気ないアドバイスが非常に効果的で、一流の選手が入るとチームは変わるんですねえ」と数字以上の“フランコ効果”に感謝した。

 だが、バレンタイン監督が1年限りで解任されるとフランコも退団。96年にインディアンスでメジャー復帰すると、打率.322、14本塁打、76打点と再び素晴らしい成績を残した。その後、確執が噂された広岡GMがチームを去った98年、頼れる男はナインの熱いラブコールに応え3年ぶりのロッテ復帰を決断。実際はすでに40歳を迎えていたはずだが、年俸2億6000万円に加え、日本球界初の観客動員数によるインセンティブ契約も結ぶ。

 選手会長の小宮山悟が「自分のプロ意識も、フランコによって変わった。若い選手には一緒にプレーすることでいろいろと感じてもらいたい」と信頼を寄せる助っ人は主将を任せられ、5月8日には千葉マリンで自身初の1試合3本塁打を記録するなど、打率.290、18本塁打、77打点と衰え知らずの打棒でチームを牽引(さすがに二塁守備は厳しくなってはいたが……)。右打席からバットのヘッドを極端に投手方向へ向ける打撃フォームも健在で、首脳陣に対し自身の野球理念を説き、2年目の小坂誠に「サムライ・スピリット(武士道精神)を知っているか?」なんて亀仙人ばりに技術面だけでなく精神面もレクチャーした。

「ベースボールは生き方そのもの」


オリックス・イチロー(右)との2ショット


 しかし、98年のロッテはプロ野球記録を更新する18連敗もあり最下位に沈み、球界のグランドマスターはまたも1年限りでロッテを去る。その後、韓国でのプレーも経験し、またも大リーグの舞台に戻ると、2007年5月にはランディ・ジョンソンからメジャー最年長記録となる48歳254日での本塁打をかっ飛ばしてみせた。MLB通算2586安打、NPB通算286安打を放った偉大な打者は、2015年に56歳でBCリーグ・石川ミリオンスターズで選手兼任監督を務め、なんと3割を超える打率を残している。

 石川在籍時、『週刊ベースボール』2015年6月22日号のインタビューでは、50代中盤を迎えても衰えることのない野球への情熱をこんな風に語っている。

「ベースボールは自分の生き方そのものなんだ。愛しているからこそ、できるだけ長くプレーしたい。スタジアムに来て練習するのも、ゲームをするのも大好き。建築家もドクターも70歳になっても設計したり、手術をしたりするだろ? それと同様だと思う。ワタシも愛していることに、いつまでもかかわっていたいんだ」

「ベースボールこそが、理想の自分へと高める最大のモチベーションとなるんだ。ファンも9回裏、サヨナラ勝ちできそうな場面は興奮して、緊張が高まるだろう。見ているファンがそうなんだから、実際にフィールドでプレーしているバッターやピッチャーはどうだ? その緊張感は想像を絶するものだろう。ただ、そのギリギリの状態でプレーすることがワタシは大好きで、そこで結果を出したいと思うことが自分を突き動かすんだ」

 そして、年齢に対する考えを聞かれた56歳のフランコはこう答えてみせるのだ。

「Age is only number.」

 そう、“年齢は単なる数字だ”と。

文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM
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