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プロ野球20世紀・不屈の物語

中日、涙の日本一……その裏側にあったファン最悪の(?)暴挙と、ナインが流した涙のワケ/プロ野球20世紀・不屈の物語【1954年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

平和台の中日ベンチに……


1954年、西鉄を4勝3敗で下して日本一に輝いた中日ナイン


 プロ野球の創設メンバーでもある中日が初めてリーグ優勝、そして日本一に輝くまでの歴史は紹介している。初の快挙は、紆余曲折を経て、チーム名が現在まで続く中日ドラゴンズに定着した1954年に成し遂げられた。

 その立役者はエースの杉下茂だ。ペナントレースではリーグ最多の63試合に登板。もちろん、21世紀のリーグ最多登板とは趣が異なり、先発でも救援でもマウンドに立って、投球回395イニング1/3もリーグ最多だった。そして投手3部門すべてでキャリアハイ、リーグトップとなる32勝、273奪三振、防御率1.39。勝率.727も同様で、もちろん沢村賞、MVPに輝いている。西鉄(現在の西武)との日本シリーズでも5試合に登板して3勝を挙げ、3勝3敗で迎えた第7戦(中日)では完封。杉下は号泣した。杉下だけではない。ナインはおろか、天知俊一監督はじめ首脳陣も、大粒の涙を流した。

 それより前にも、その後にも、毎シーズン必ず優勝、日本一の場面はあるわけだが、これほどまでに涙が流れたことはない。世にいう“涙の日本一”だ。悲願に向かって一致団結した男たちの流した涙が美しいものだったことは疑いようがない。ただ、その裏には、努力が報われた歓喜という美談だけでは片づけられない、不屈の物語があった。

 日本シリーズを戦った西鉄は、2リーグ分立からの参加ではあるが、中日と同様、初めて優勝を決めたチームだ。ナインもさることながら、ファンの日本一に懸ける意気込みは、それ以上だった。地元ファンの熱気については、西鉄の本拠地だった平和台球場を紹介した際に詳しい。決戦の舞台は第3戦から平和台へ。そこで、前代未聞、空前絶後の珍事件が起きる。近年の日本シリーズでは考えられないことだが、当時は両リーグに強いライバル意識があり、審判までをも巻き込んだ水面下の暗闘すらあった時代。“涙の日本一”に終わった日本シリーズは、試合こそ穏便に終わったが、グラウンド内外には、キナ臭い雰囲気が漂っていた。

 いや、キナ臭いどころか、ほんとうに臭かったことだろう。試合のために中日ナインが平和台球場へ入ると、中日ベンチの前に盛られていたのは、人糞。現在と違って嫌がらせにも相当な労力が必要だった時代だが、人糞の調達と球場への侵入は容易だった(?)時代でもある。ただ、これは天知監督が「おお、これでウンがついた。縁起がいいな」と一笑に付したが(もちろん片づけた関係者はいたのだが……)、中日ナインはファンに宿舎まで追いかけられ、ドスで脅されたこともあったというから笑えない。

中日ナインの四面楚歌


 中日ナインの敵は敵地の西鉄ファンだけではなかった。選手の温存、休養という発想が皆無に近かった時代でもある。中日ファンが杉下に試合を託したいという気持ちは分からないでもない。だが、そんな思いは球団も同様で、これが中日ナインに向かって暴発する。舞台が名古屋に戻った第6戦の前日、球団の重役が天知監督に「杉下を投げされろ。明日で決めろ」と“指示”。疲労の色が濃かった杉下を見ている天知監督はキッパリ「休ませる」とはねのけた。

 売り言葉に買い言葉、というのもあったのかもしれない。とはいえ、返ってきた「八百長をするのか」という言葉に、天知監督の中で何かが切れた。第6戦は杉下を温存して、敗戦。ファンのヤジも、前述の暴言と内容は同じだった。ほとんどの人が同じ思いだったのは確かだ。だが、それが間違った方向へ向かうと始末に負えない。ほとんどの悲劇が、こうした状況から始まることは歴史が証明することだ。暴言を浴びたことを胸にしまっていた天知監督は杉下に「今日は使わない。ベンチから1歩も出るな」と厳命している。

 第7戦を終えた天知監督は振り返っている。「八百長と言われた悔しさがあった。野球人をバカにするな、と。だから勝った途端に涙が出た。あれは悔し涙なんだ」……オフに天知監督は退任した。その後、中日が長く優勝から遠ざかったのは歴史の必然だったのかもしれない。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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