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プロ野球20世紀・不屈の物語

衣笠、連続試合出場の危機から代打で江川と対決。その姿が呼び込んだ至高の副産物/プロ野球20世紀・不屈の物語【1979年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

「あの日の江川は最高でしたね(笑)」


豪快なバッティングでファンの視線を一身に集めた衣笠


 広島衣笠祥雄が残した2215試合連続出場、そして初の日本一イヤーの1979年にスランプのため途切れた連続フルイニング出場については紹介している。このときのスランプが、70年の終盤から87年の引退まで続いた連続出場の期間中で、もっとも衣笠を追いつめたものだという。フルイニング出場こそ途切れたものの、試合には出続けていた衣笠を襲ったのが、8月1日の巨人戦(広島市民)での骨折。衣笠は「体が痛いだけですし、待っていれば治るわけですから」と笑い飛ばすものの、左肩甲骨の亀裂骨折で全治2週間、普通なら試合に出場するどころか、笑ってもいられない重傷だ。

 悲劇が起きたのは7回裏だった。巨人のマウンドには西本聖。空前のトラブルを経て入団した“怪物”江川卓を新たにライバルと位置づけ、不屈の魂が燃え盛っていたシーズンだったが、乱調だった西本は、その7回裏に3死球を与えて不名誉なプロ野球記録を更新してしまう。その3人目が衣笠だった。何度も衣笠に謝った西本に対して、不穏な空気を察知して刺激しないように思った衣笠は、「ベンチに戻れ」と言ったという。その悪い予感は的中する。怒った広島ナインはベンチを呼び出し、巨人ナインとの乱闘に発展。巨人からは捕手の吉田孝司、広島からは田中尊コーチが退場を命じられた。

 ドラマは続く。翌2日の同カード、やはり7回裏だった。マウンドには江川。2点を追う広島は、代打に衣笠を送る。連続出場もあっての古葉竹識監督の温情ともいわれたが、衣笠は「打てると思ったから、古葉監督に『出してください』と言った。チームの勝利に貢献できる自信があったから、打席に立ったんです」を言い切る。実際、衣笠のスイングは、当たれば強烈な打球になったと思われるほどの勢いがあった。江川は3球、外角へのストレートを投じる。衣笠のバットは無情にも空を切って3球三振。このとき衣笠は「1球目はファンのために、2球目は自分のために、3球目は西本くんのために」と語ったとされる。

 ただ、この場面を回顧する衣笠は「あの日の江川は最高でしたね。当たると思って振ったけど、当たらなかった」と笑う一方で、「周りの人からは、そう見えたということでしょう」と、穏やかな笑みを浮かべた。

「僕は球界の先輩ですし」


西本から死球を受けて倒れ込む衣笠


 衣笠の分析は冷静だ。「2つの失敗が重なった。1つはリリースの際、西本くんの指先、何ミリかの誤差が、(バッテリー間の)18.44メートルを来る間に何十センチもの誤差になって僕に向かってきた。もう1つは、僕の逃げ方が失敗。体を斜めにして当たればよかった。僕は球界の先輩ですし、もう少し上手に対処していれば西本くんが責められることはなかったでしょう」と衣笠。さらに「あの死球を境に、ぶつけられた後の態度も変わりました。死球で痛がっている選手を見るために、ファンは球場に来ているのか。颯爽と一塁まで行けばいい。痛ければベンチに戻って治療すればいいんです」とも続けた。

 だが、さすがの衣笠も3球三振の後は動けず。自らの体にも容赦のないフルスイングだったということでもあるが、その執念の表情は、予想だにしなかった副産物をもたらす。

 そこから広島ナインの雰囲気は明らかに変わった。一時は最下位に沈んでいた広島の順位も着実に上昇。8月の中旬には首位に立ち、10月6日には同じ広島市民球場で2度目の優勝を決めた。チームの勝利よりも自身の連続出場を優先したという声もあるが、もし実際に衣笠が自身のことだけを考えていたのなら、ナインの胸が熱くなることはなく、むしろ雰囲気が悪化して、低迷は続いたのではないか。間違ってもVイヤーのエポックとして語り継がれることはないはずだ。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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