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近鉄移籍の一枝修平が語る「水原監督との不仲はウソ」/週べ回顧1972年編

 

 一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。

連載初の女性写真となったが、内容とはあまり関係ない


前回、巨人関本四十四と対談した南沙織さん


 今回は『1972年1月31日号』。定価は90円。

 71年オフ、中日一枝修平の近鉄移籍が決まった。
 ショートの名手だったが、71年は試合出場が大きく減っていた。シーズン中、水原茂監督との確執がウワサされたが、水原監督も同年限りで退任。移籍に関しては、関係あるまい。
 気が強く、群れない性格だったようで歴代の首脳陣、フロントとは合わなかったようだ。

 この号で一枝の告白記事があった。トレードは自身が志願したものだったという。大阪出身だけに、近鉄移籍はうれしかったとも書いてある。
 ただ、内容はあまり穏便なものではない。一枝は、
「いまさら中日の悪口を言いたくないけど、とにかく私は騙され続けてきたと言える」
 と、きっぱり言い切っている。
 
 最初に球団に不信感が芽生えたのは、67年だったという。南海との間でトレードが決まりかけ、それがマスコミにも明らかになったが、土壇場でご破算になった。
 そのとき西沢道夫監督から、
「こんな話が表面に出てしまっては君もやりづらいだろ。なんとかほかのチームで働けるよう計らってみるよ」
 と言われた。そのとき「勝手に話を進めながら、なんだそれは」となった。

 決定的なのは、やはり水原監督時代だ。69年、「一枝はいらない。代わりに強打の外人を獲得する」と言って、水原監督は渡米。それを聞いた一枝は「外人がくれば私はいらないのでしょ」と球団に移籍志願をした。
 そのときは残留となったが、1年後、70年シーズンが終わった後の契約更改では、このままプロ生活を終えたくないと、球団代表に、あらためて移籍を直訴した。
「チャンスを与えられて、もう一度自分の力を試してみたい。監督もいらないと言っているし、中途半端な気持でやるのはたえられない。トレードしてもらえないでしょうか」
 そのとき球団代表は「水原監督が連れてきた外人選手が計算どおりの働きをしてくれるなら、シーズン中でも君のトレードをどこかと交渉しよう」と言ったという。
 ある意味、球団フロントと水原監督の間の確執も感じられる言葉だ。

 ともあれ、一枝の代わりにショートに入ったバートは出だしのみの活躍で以後は不振続き。それでも一枝の出番はなかった。一枝は、シーズン中、代表に、
「私はこのままではやっていけない。やめることも考えている」
 と移籍がなければ引退をほのめかしたが、鼻先であしらわれた。
 怒った一枝は試合をサボタージュし、謹慎処分となった。

 代表は、そのとき一枝から相談を受けていたにもかかわらず、
「一枝がなぜこんなことをしたのか分からない」
 と言った。さらに謹慎の解除時には、
「一枝は水原監督と話し合い、非を認めたので復帰してもらいます」
 と言ったが、実際には謝罪どころか、一枝は水原監督と会ってもいなかった。

 結局、そのときはうやむやとなったが、一枝は水原監督が辞任した後の納会で直接、「迷惑をかけました」と謝罪。水原は、
「お前の気持ちも分かっていたよ、お互い、ああなるしかしようがなかったかもしれんな」
 と笑っていた。

 写真はコメントでリクエストがあった南沙織さん。巨人・関本四十四との対談で撮影したものだ。

 では、また月曜に。

<次回に続く>

写真=BBM
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