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平成助っ人賛歌

「細かすぎて伝わらないモノマネ」で人気、元日本ハム・イースラーの超ハイフィニッシュ打法とは?/平成助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】

 

売り込みで日本ハムへ


88年シーズン途中、日本ハムに加入したイースラー


「あそこにいたのは、マイケル・ジョーダンの姿をした神だ」

 1985-86年シーズンのNBAプレーオフ第2戦、当時23歳のジョーダンと戦ったボストン・セルティックスのラリー・バードの言葉だ。同年のチャンピオンに輝くセルティックに対し、ブルズは二度のオーバータイムの末に敗れたが、背番号23はプレーオフ新記録となる1試合63得点を挙げた。やがて、ジョーダンはベーブ・ルースやモハメド・アリと同じように、ジャンルを超えた時代を象徴するスーパースターへと登り詰める。日本のストリートでも、ナイキの“エア・ジョーダン”のバッシュは人気となり、ジョーダンを入口にNBAやアメリカのカルチャーを知った少年たちも多い。

 ゆったりとしたバギーパンツや剃り上げたスキンヘッドもそうだ。88年7月に阪神タイガースがあのランディ・バースの後釜として、ルパート・ジョーンズという外国人選手を獲得したが、注目されたのは野球の実力ではなく、日本球界初の背番号00とスキンヘッドだ。当時の『週刊ベースボール』でも「やってきた“途中編入生”ルパート・ジョーンズ」という記事で、「ツルッパゲの異様なヘア(?)スタイル」なんて紹介。少なくとも、80年代後半の日本ではスポーツ選手のスキンヘッドという概念が存在しなかった。それが、やがてジョーダンによって世界中に広まっていくことになる。

 さて、その“ゼロゼロ怪人”ことジョーンズが日本へやってきた昭和最後の88年シーズン。パ・リーグでは派手な打撃フォームの助っ人選手が話題を呼ぶ。日本ハムファイターズのマイク・イースラーである。春先のデイエットやブリューワの故障でシーズン途中での来日となったが、左打席で状態を低くかがめたクラウチング・スタイルの構えから、背番号6が激しくねじれる強烈なスイングに加え、打ったあとにバットのグリップが頭の上に来る“超ハイフィニッシュ打法”は瞬く間に人気となった。

 イースラーは大リーグ通算14年間で、打率.293、1078安打、118本塁打と実績は十分だったが、すでに37歳の大ベテランで88年は3Aオクラホマシティーに所属していた。もともと日本ハムが4月中旬に腰痛のブリューワの代役として、第三の外国人に選んだのは元オリオールズのリー・レイシー外野手(こちらも38歳だった)。だが、契約寸前の段階でレイシーに薬物使用の前科があることが発覚。日本ハムの小島代表は渡米してレイシーに獲得断念を告げ、第二候補の選手にあたったが、なんと昨季限りで引退してすでに解説者へ転向していた。そこに自ら売り込みにきたのが、超ハイフィニッシュ打法のイースラーというわけだ。前代理人がヤンキースと契約交渉で揉め、大リーグ復帰は難しいと感じていたイースラーは、親交のあるヤクルトのデシンセイから「日本ハムという球団が新外人を探している」と電話で聞き、日本行きを希望。数年前から獲得リストに名前があった日本ハムと年俸6000万円で話がまとまった。
 

米コミッショナーからクレーム


 しかし、だ。この契約になぜか米コミッショナーから「事前交渉の疑いがある」とクレームがついた。といっても「過去に日本の球団とアメリカ球界の間で、その疑いがあるため、調査してほしい」という内容で、イースラー本人は直接的に関係なく、日本球界の加速する大物獲りのトバッチリを食ってしまう。当時の好景気がもたらすジャパンマネーの勢いには大リーグも脅威を抱くほどで、イースラー来日を伝える週べの人気コーナー「球界ずうむ・あっぷ」の書き出しはこうだ。

「これも円高、カネ余り(決して庶民はそうじゃあない!!)ニッポンの象徴ということでしょうか。バリバリの現役大リーガーに大金を積んで日本に簡単に連れてくるパワーに加えて、今年は新たに「ダメになったら3人目」とか「まさかのための3人目」なる、ひとチーム2人というワクを超えた助っ人の補強が目立っております」

 入団の際に日米野球協約違反では、と契約が遅れたことも陽気な怪人にとってはどうでもイイズラー……なんつってなんだかよく分からないギャグもかます異様にテンションの高いリポートとなっている。ちなみに同年に東京ドーム開業元年の日本ハムが獲得したブライアン・デイエットは、4年総額5億円という異例の大型契約である。ただ、古傷の右足痛に泣かされ初年度の序盤に離脱。高田繁監督も「痛いというんじゃどうしようもない」とサジを投げ、前年度35本塁打のブリューワも腰痛と二枚看板がまったく機能せず、Bクラスに沈むチームの救世主を期待されたのがイースラーだった。

強烈なキャラクターでマスコミに人気


37歳と年齢を重ねていたが打撃ではパワーを見せつけた


 来日して間もない5月17日にロッテ戦前の川崎球場で初めての練習参加。球場入りするなり「アチャーッ」「キエーッ」「キャッホーッ」などと奇声を発し、チームメートをドン引きさせる。出場選手登録されてからも、試合前の国歌演奏直前になぜか三塁後方でひとり猛烈なダッシュ練習をかまし、演奏が始まると三塁ベース上でひとり気をつけの最敬礼。エキセントリックすぎて「とんでもねえのが来た」とナインを震え上がらせたが、スタメン四番デビューを飾った5月19日ロッテ戦の第1打席で来日初打席初アーチをかっ飛ばす。これには高田監督も「37歳とは思えないパワー。こいつはすごい拾いモノかもしれんなあ」とご満悦。与那嶺要打撃コーチは「打ち終わった後のフィニッシュが、伸び上がるようになるだろう。みんなアッパースイングだというけど、実は違うんだ。打球をとらえるまではレベルスイングになってるし、あれは問題ない」と絶賛した。

 その活躍と強烈なキャラクターはマスコミに人気で、『週刊ベースボール』88年6月13日号でも異色外国人特集「オレだ!イースラーだ!文句あっか!」が掲載されている。記事写真のキャプションは「ゴルフじゃありません、野球のスイングです」とか「ラジオ体操じゃありません、ティー打撃です」と例の“イイズラー”ノリだ。

「ああ、奇声ねえ。フフン。オレはね、球場に来るとアドレナリンが強烈に分泌されるのさ。そうするとあり余るエネルギーに火がつく。もう、黙っちゃいられないって感じになる。まずいかな? いいだろう」
 
 なんてウインクする相変わらずのイースラーだったが、普段はタバコを吸わず、酒もワインを少々たしなむ程度。愛する妻と3人の愛娘を故郷のクーリブランドに残しての単身赴任だ。元大リーガーらしくプロ意識は強く、球団に対してファーム選手への打撃理論の講演をさせてくれと申し入れたり、大型契約にもかかわらず審判への不満を漏らす同僚デイエットにはこんな喝も入れてみせる。

「慣れない場所に来てプレーするには、やはりいろいろな障害があるだろう。だけど、オレたちはすべてを受け入れなきゃいけない。それでメジャーの力を見せなければ、アメリカへ帰ってから、恥ずかしいぞ」

わずか2年の日本生活だったが……


引退後は米球界で指導者生活をスタート。ブリュワーズ(写真)、レッドソックス、カージナルスなどで打撃コーチを務めた


 前半戦終了時の成績は打率.299、7本塁打、34打点で不動の「四番・DH」としてチームを牽引する。結局、5月19日の初打席初アーチデビューから最終戦まで四番打者でフル出場。97試合で打率.304、19本塁打、58打点、OPS.906と打線の核となり、“トレンディエース”西崎幸広松浦宏明らとともに日本ハムの3位躍進の原動力となった(西崎と松浦はそれぞれ15勝を挙げ、西武渡辺久信と最多勝のタイトルを分け合った)。

 しかし、この頑張りは38歳の身体への負担も大きかったのか、平成が始まった翌89年シーズンは、年俸7500万円で再契約したものの度重なる故障や実母の死に見舞われてしまう。45試合で打率.296に7本塁打も、夏の終わりとともに亀裂骨折で戦線離脱して、そのまま現役引退。帰国後、90年からはさっそくルーキーリーグで監督となり指導者としてのキャリアをスタートさせている。

 わずか2年の日本生活で、NPB通算26本塁打。数字は平凡だが、引退して30年以上が経っても、いまだに野球ファンを越えてその知名度は高い。『とんねるずのみなさんのおかげでした』の人気コーナー「細かすぎて伝わらないモノマネ」で、お笑い芸人の杉浦双亮がイースラーの超ハイフィニッシュ打法を持ちネタにして度々出演。“東京ドームでの試合でチャンスに回って来たときの元日ハムイースラー”や“バス移動で目的地に着いたときの元日ハムイースラー”といったレパートリーで人気となった。

 なお、モノマネ時に杉浦が口ずさむ「ヴァ〜、ヴァ〜ヴァ〜ヴァ〜」という応援歌はイースラーではなく、阪神時代のバースのものである。

文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM
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