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プロ野球20世紀・不屈の物語

19歳で九死に一生を得た奇跡の(?)右腕、20歳で完全試合/プロ野球20世紀・不屈の物語【1958〜70、72〜73年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

わずか3三振での完全試合


大洋の島田。通算成績は381試合登板、70勝77敗、防御率3.18


 駅のホームには危険がつきものだ。ただの危険ではない。悪い条件が重なれば生命の危険にもつながる。近年なら、いわゆる“歩きスマホ”、伝統的(?)なのは酒に酔っての千鳥足。ここ数年は都市部にはホームドアが設置されていることも少なくないが、全国的には、まだまだ危険と隣り合わせの場所も多い。間違っても、遊ぶ場所ではないのだ。

 かつて、これで死にかけたプロ野球の選手がいた。大洋(現在のDeNA)の島田源太郎だ。テスト生としての入団だったが、1年目から一軍に帯同していた島田。事故は19歳となった2年目、移動中の大阪駅で起きた。立派な社会人だが、まだ未成年だ。先輩、いや大先輩の青田昇近藤和彦のマネをして遊んでいた島田は線路に転落。これで右手首を打ち、それをかばっているうちにヒジを痛める悪循環に陥った。それでも運がいいほうだ。駅員からは「少し遅ければひかれて死んでいた」と注意されたという。

 1年目は11試合に登板して無傷の2勝。活躍が期待されながら不注意による事故で伸び悩んだ2年目は4勝3敗に終わる。球種は重いストレートと大きなカーブのみ。九死に一生を得た右腕だったが、迎えた3年目、選手生命としては早くも背水の陣に立たされたといっていい。その3年目こそ1960年。大洋が創設11年目にして初優勝、日本一を飾ったシーズンだった。

 西鉄(現在の西武)で黄金時代を築いた三原脩監督が就任して1年目。三原監督は当時としては珍しく継投させることが多く、21勝でMVPに輝いたエースの秋山登でさえ8完投で、チーム全体では29完投だった。そのうち島田には14完投もさせている。三原監督が“英才教育”を施していたことが分かる数字だ。島田は着実に勝ち星を伸ばしていく。4月から月別で2勝、2勝、3勝。7月は2勝3敗で負け越したが、8月に巻き返しを図った。

 そんな8月11日の阪神戦(川崎)。マスクをかぶっていた土井淳との呼吸もピッタリ合って、島田は凡打の山を築いていく。2回表一死からに四番の藤本勝巳が左飛、8回表一死から五番の三宅秀文が右飛。外野まで打球が飛んだアウトは、この2本だけだった。一方で、異様に少ないのが三振。6回表二死から投手の村山実から奪ったのが最初で、次が9回表の先頭、代打の横山光次から。そして、この試合27人目、代打の吉田義男が3個目にして最後の三振だった。プロ野球6人目の完全試合。20歳11カ月での達成は現在も最年少記録として残る。

コーチから現役に復帰


 島田は8月、9月に5勝ずつと荒稼ぎして、最終的には19勝。だが、その後も浮き沈みの激しいキャリアを送った。その後は肩痛もあって徐々に失速し、負け越しが続く。66年はゼロ勝、翌67年は2勝に終わった。開幕を二軍で迎えた68年は、4月末に一軍から呼ばれたが、与えられた仕事は打撃投手。そこで秋山コーチに直談判。5月1日のサンケイ(現在のヤクルト)戦(川崎)で先発させてもらうと、いきなり完投勝利、そこから勢いに乗って10連勝と復活した。最終的には14勝で2度目の2ケタ勝利。勝率.700はリーグトップだった。ただ、そこから再び失速。2度目のゼロ勝に終わった70年オフに現役を引退、コーチに転じた。

 だが、この程度のことで終わらないのが、この男のすごみだ。「コーチでは給料が安すぎて、やっていけない」と再び直談判。投手陣のコマ不足もあり、わずか1年のブランクで現役に復帰すると、その72年には、やはり8月に6回までパーフェクトの完封勝利を収め、「コーチになってくれと言われたとき、こんな感動はあきらめていた。やっぱり現役はいいね」と声を弾ませた。

 最終的には3勝。翌73年は3度目のゼロ勝に終わって、あらためて引退した。晩年の異名は“不死身の源さん”。ひょうひょうとした投球もあり、“おとぼけ源さん”とも言われている。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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