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プロ野球20世紀・不屈の物語

日本では珍しい大型スイッチヒッターが37歳でメジャーを目指した理由/プロ野球20世紀・不屈の物語【1979〜97年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

1年目は用具係の練習生


1982年、若き日の阪急・松永


 1990年代の後半は、近鉄の野茂英雄を皮切りに、オリックス長谷川滋利や、ロッテ伊良部秀輝ヤクルト吉井理人ら、プロ野球の選手たちが次々に渡米して、メジャーを目指し始めた時代だった。それぞれが脳裏に描いていた夢の光景は違っただろうが、いずれも大志を抱いての挑戦だったことは確かだ。近年のように、その道筋は整備されていなかったが、ほとんどが若く、脂の乗り切った全盛期。実力もさることながら、若さによる勢いもあり、どんな困難をも乗り越えられる余力もあっただろう。20世紀の挑戦者は投手ばかりだったが、例外が1人だけいた。例外なのは打者というだけではない。年齢は37歳。97年に3チーム目のダイエーでプロ20年目を終えて、引退を勧告されていた松永浩美だ。

 例外というより、他の選手たちとは対照的ともいえるほど、不屈のキャリアを過ごしてきた松永。福岡県の出身で、小倉工高を中退して78年に阪急(現在のオリックス)へ入団した。ただ、扱いは練習生で、背番号もなし。1年目は用具係として働き、支配下の選手が来てからでは自分の練習ができなくなるため、誰よりも早くグラウンドへ来て、ティー打撃に精を出した。先輩で、猛練習で知られた福本豊も「あいつの努力に比べたら、僕は子どもですよ」と脱帽しているが、それが実って、翌79年には支配下に登録される。

 最初の背番号は48だった。そこからスイッチヒッターに挑戦。左打ちの経験がなく、不安を感じたという松永だったが、住友平コーチに「お前もメジャー選手のように左でも右でもホームランを打てるような選手になって、スイッチに革命を起こそう!」と言われたことで奮起する。ただ、よくあるエピソードのように、このときにメジャーへの夢が生まれたわけではなく、日本では前例のない大型スイッチへの挑戦が始まった、ということに過ぎない。

 それでも、死に物狂いだった。81年に一軍デビュー。翌82年には正三塁手の座を確保して、サイクル安打も達成している。そのオフに背番号8となり、続く83年には21本塁打。プロ野球で最初の長打と俊足を兼ね備えた大型スイッチという地位を確立して、ゲーム両打席本塁打は引退まで6度を数えた。

首位打者を逃すこと3度


阪神を経て、最後はダイエーでプレーした


 阪急にとって最後のVイヤーとなった84年には初めて打率3割をクリア。翌85年には38盗塁で盗塁王に輝いている。阪急ラストイヤーの88年にはロッテの高沢秀昭と首位打者を争い、最後の直接対決でプロ野球新記録の11打席連続四球。最後は届かない球にバットを投げて三振に倒れ、タイトルに届かず。オリックス元年の89年も8月までは打率トップだったが、9月に急失速。日本ハム島田誠と同様に、「1度でも首位打者を獲っていたら、獲り方が分かって何度も獲れたと思う。そういう紙一重はありますね」と語っている。自身2度目のサイクル安打もあった91年も打率2位。最後の最後で規定打席に滑り込んだロッテの平井光親とは、わずか4毛の差だった。

 93年に移籍した阪神でも、背番号2をシーズン途中で前代未聞の02に変更するなど異彩を放ったが、オフに導入されたばかりのFA制度で地元のダイエーへ。移籍1年目はレギュラーとしてチームの起爆剤となったが、その後は徐々に失速していった。

 そして97年オフ。「自由契約と言われたとき、最後のヒットを覚えていなかった。だから、それをアメリカで作ろうと。消化不良ですね。それで引退試合の代わりにメジャー球団への橋渡しを頼んだ」のだという。自費でアスレチックスのトレーニングに参加したが、結局、契約はかなわなかった。ただ、メジャーへの夢ではなく、単に最後の1安打を記憶するためという理由も、人気はないが実力では負けない、古き良き時代のパ・リーグを知る松永らしい。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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