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プロ野球20世紀・不屈の物語

闘志あふれるツバメの右腕を襲った大阪ドームの悪夢/プロ野球20世紀・不屈の物語【1997年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

いたちごっこの歴史


1995年、近鉄からヤクルトへ移籍し、同年から3年連続2ケタ勝利を挙げた吉井


 球場トラブルにも時代によって流行があることは以前にも書いた。トラブルが起きると、球場は対策を講じ、それでも別の形でトラブルが起きて、次なる対策で封じ込めようとする。残念ながら、これは球団と悪質な観客の、いたちごっこの歴史でもあるだろう。この2020年、感染症の対策として大声の声援を慎まなければならなくなったが、それでも飛んだヤジだけが唯一、古くから変わらないものかもしれない。

 かつてはスタンドとグラウンドの距離が近く、怒った観客がグラウンドに乱入して警官隊が出動するパターンが多かった。1970年代に入ると、チーム同士の“遺恨試合”でファンがヒートアップ。70年代の後半には「球場に爆弾を仕掛けた」という類のイタズラ電話が目立った。もちろん、電話が普及していなかった時代には、こんなことはできない。群集心理の暴走で大パニックになったり、ケガ人が出るようなことは減ったりしたかもしれないが、時代が便利になるにつれ、紳士的なファンも多数派を占めるようになった一方、悪意は巧妙に姿を潜ませ、ごく一部の人間が起こすトラブルも陰湿になっていったようにも思える。

 見方を変えれば、以前は観客が束になってかからなければ試合を妨害することはできなかったが、わずか数人、あるいは1人でも、試合を中断させられるようになってしまったとも言えそうだ。

 97年に目立ったトラブルも観客が暴徒と化した類のものではなかった。事件になったのは8月5日。大阪ドームでのことだった。事件、というのは比喩ではない。3回裏、巨人の攻撃。対するヤクルトのマウンドに立っていたのは吉井理人だ。そんな試合の真っ最中、バックネット裏から吉井の目にレーザー光線のようなものが当てられる。吉井は目頭を押さえて球審にアピール。試合は中断され、すぐに警備員が客席で犯人を捜したが、特定することはできなかった。

 吉井は右目の瞳孔が一時的に開いたままの状態となり、しばらくしても影のような残像が消えず、降板に追い込まれる。それ以前にも甲子園で巨人の選手が同様の被害に遭っていたことも分かり、各地の球場は警備の強化を余儀なくされた。なお、ヤクルトは10月に容疑者不定のまま大阪府警に威力業務妨害で告訴している。

吉井の本領


 吉井は闘志で鳴らした右腕。同様に強心臓で知られた西武東尾修は小学校、中学校、高校のすべてで先輩にあたる。84年に近鉄へ入団、5年目の88年に最優秀救援投手に輝き、伝説の最終戦ダブルヘッダー“10.19”では2試合ともにリリーフでマウンドに立っている。91年には仰木彬監督との激しい口論の末、「頭に来て思い切り投げたらヒジがいってしまった」(吉井)と、じん帯を損傷。開幕の直前にトレードでヤクルトへ移籍したのは95年だった。

 新天地では先発に回って3年連続で2ケタ勝利も、暴れっぷりは変わらず、打ち込まれると必ず大暴れ。野村克也監督が暴れた音に驚いてベンチの天井に頭をぶつけたこともあったという。この97年は前半戦だけで8勝を挙げる絶好調だったが、わずか1球、たった数センチの差をめぐる判定で試合の流れが一変してしまうのがプロ野球の怖さでもある。

 闘志を誇る吉井だったが、レーザー光線の事件を境に、そこから右肩の炎症で登録を抹消されるなど、その勢いに陰りが見え始めた。最終的には持ち直して自己最多の13勝を残し、ヤクルトもリーグ優勝を果たしたことは、不幸中の幸いだったといえるのかもしれない。

 ただ、これしきのことで完全に崩れないのが吉井の本領だ。そのオフにFA宣言。日本の5球団からオファーが届き、迷った末に選んだのはメッツへの移籍。メジャーでは世紀をまたがって3球団でプレーして、ロッテで引退するまで、日米通算24年のキャリアをまっとうした。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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