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プロ野球20世紀・不屈の物語

落合を「ものすごく不愉快な気分」にさせた男。外国人で初めての三冠王、急転直下のラストイヤー/プロ野球20世紀・不屈の物語【1984〜92年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

ブルーウェーブ時代は1年だけ


阪急で外国人初の三冠王に輝いたブーマー


 ロッテ落合博満が1984年シーズンを終えて「ものすごく不愉快な気分になった」(落合)ことは紹介した。理由は打撃3部門すべてに届かなかっただけでなく、そのすべてを1人の男に独占されたこと、つまり、2度目の三冠王を狙う落合ではない男が三冠王になってしまったことだった。

 その男とは、阪急(現在のオリックス)のブーマーだ。この84年は来日2年目で、打撃3部門の数字は37本塁打、130打点、打率.355。外国人選手としては初めての三冠王でもあったが、いずれも落合が初の三冠王となった82年の数字を大きく上回っている。それだけではない。82年の落合には成し遂げられなかったことを、この男はやってのけた。優勝だ。阪急にとっては最後のリーグ優勝となったが、同時にブーマーは阪急の選手としては最後のMVPにもなっている。

 ただ、日本シリーズでは対する広島から執拗に内角を攻められて沈黙し、阪急も日本一はならず。ブーマーは86年まで3年連続リーグ最多安打を放つも、85年からは落合が2年連続で三冠王に。落合が中日へ移籍してパ・リーグを離れると、ブーマーは3年ぶり2度目の打点王に返り咲いた。阪急ラストイヤーの88年は故障が続いて88試合の出場にとどまったが、チームがオリックスとなって迎えた89年は18キロの減量にも成功し、初の全試合出場で3度目の打点王、2度目の首位打者。このブーマーが80年代を代表する助っ人の1人であることは間違いないだろう。

チームは阪急からオリックスとなったが、ブーマーもそのままプレーした


 だが、90年代に入ると、途端に雲行きが怪しくなっていく。チームはオリックスとして生まれ変わり、新しい歴史を紡ぎ始めようとしていたことも無関係ではなかっただろう。ニックネームも91年にはブルーウェーブに変更されたが、ブーマーはブルーウェーブ時代を1年だけ経験して、チームを去っていくことになった。90年は日本でのキャリアでワーストとなる46試合の出場、7本塁打に終わる。それでも打率3割を維持し、翌91年には無冠ながら121試合に出場したが、就任1年目の土井正三監督と確執が生じて、オフには自由契約に。来日して9年目、37歳だった。だが、そんなブーマーを獲得したのがダイエー。やはり88年オフに南海から生まれ変わったチームで、ブーマーは10年目を迎える。

4度目の打点王に輝いたが……


日本球界の最後は91年の1年だけダイエーでプレーした


 ダイエー1年目のブーマーは、全盛期ほどの安定感は失われていたものの、開幕から強打で本領を発揮していく。前半戦を終えた時点で、打率.291と大台にこそ届かなかったが、20本塁打、64打点。本塁打は早くも91年シーズン通算に並んだ。ただ、後半戦に入ると、「平和台の熱さにやられて」(ブーマー)急失速。打率.230と安定感を欠き、6本塁打、33打点と、迫力も失った。それでもシーズン97打点で4度目の打点王だ。

 だが、オフにダイエーは広い福岡ドームへ移転することになり、ブーマーは就任した根本陸夫監督の構想から外れ、退団。結果的に、4度目の打点王は日本でのフィナーレを自ら飾る最後の打撃タイトルとなってしまった。根本監督が守備力を重視する方針を掲げたことで、ブーマーの守備力が問題だったとする声もあったが、実際は走力。豪快そのものといった風貌に似合わず(?)、一塁守備で見せるハンドリングは柔らかく、堅実だった。

 しかし、これでブーマーとプロ野球の縁が切れたわけではなかった。94年には臨時の打撃コーチとしてオリックス復帰。その後は代理人に転じて、阪急での恩師でもある上田利治監督が率いる日本ハムへウィルソンを入団させて「上田さんに恩返しがしたかった」と語った。21世紀に入って近鉄と合併し、みたび生まれ変わったオリックスのイベントなどにも登場して、ますます豪快になった(?)姿を見せてファンを喜ばせている。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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