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25歳で故障後はわずか4勝も…全盛期に「球界No.1左腕」と評された投手は

 

伝家の宝刀スローカーブ


中日の90年代前半を支えた左腕、今中(左)、山本昌


 1990年代前半のプロ野球。同じ左腕で通算219勝の山本昌を差し置き、中日のエースと呼ばれた男がいた。今中慎二。山本昌がNPB歴代最高の実働29年間で219勝をマークしたのに対し、今中は半分以下の13年間の野球人生で91勝と遠く及ばない。しかし、山本昌が514試合の先発登板で79完投に対し、今中は約3分の1の187試合先発登板で74完投と遜色ない。「カーブが消えて突然また現れる」と100キロに満たない決め球が魔球として今も語り継がれている。全盛期の輝きはすごかった。

 今中は3歳年上の兄の影響で小学2年のときに野球を始めた。本来は右利きだが、近所の女性から左利き用のグラブをもらって使い始めたことがきっかけで、左投げに。大阪産大高大東校舎(現大阪桐蔭高)に進学すると、甲子園出場はならなかったが、快速球を武器にプロから注目される存在に。89年ドラフト1位で中日に入団する。「高卒左腕は育成が難しい」というのがプロ野球界の定説だが、今中は階段を駆け上がるかのように飛躍する。プロ1年目に初勝利をマークすると、2年目の90年に初の規定投球回に到達し、6完投で10勝をマークした。

「ケガの功名」で伝家の宝刀を身に付けたのは92年。4月の巨人戦に登板した際、左手首に打球が当たって骨折。戦線離脱したが、このリハビリ期間にカーブだけは痛みがなく投げられたため、カーブのみで遠投していたところ、コツをつかんでスローカーブを習得。そして、93年はキャリアハイの年に。17勝7敗、防御率2.20、247奪三振で最多勝利、最多奪三振などに輝き、審査項目をすべて満たして沢村賞を受賞した。

 細身の体型でムチのようにしなる左腕から繰り出される150キロ近い直球と100キロ台のカーブ、80〜90キロ台のスローカーブ。主にこの3種類の球種で投球を組み立て、まったく同じフォームで投げるため配球を読まれることもない。精密な制球力と緩急で打者を腰砕けにする投球はまさに芸術だった。93年にリーグトップの14完投で249イニング、巨人との「10.8決戦」で優勝を逃した94年も2年連続リーグトップの14完投で197イニングと毎年のように200イニング近く投げ続ける。

 明らかに登板過多だった。直球、カーブのキレが徐々に失われていく。それでも95年に15完投で12勝、4年連続開幕投手を務めた96年に14勝をマーク。25歳までに87勝を積み上げ、球界を代表するエースとして名を馳せた。だが、左肩は限界だった。96年に左肩関節周囲炎で戦線復帰後も違和感を覚えながら投げた結果、患部が悪化。97年にオープン戦初登板となった3月のロッテ戦では球速が最高124キロにとどまり、球場がどよめいたほどだった。この年は2勝止まり。その後も左肩は良い状態が長続きしない。チームがリーグ優勝した99年はブルペンに入ることに恐怖を感じるほど患部の状態は悪化していた。8月に福岡市内の病院で左肩を手術し、9月30日のヤクルト戦(神宮)で優勝が決まったときも福岡市内で医師とともに夜釣りをしていたという。

「後悔はありません……」


しなやかな腕の振りからキレのあるボールを投げ込んだ


 2001年に7試合登板したが、10月に引退を決意した。主戦投手でリーグ優勝を味わえなかったことから「悲運のエース」と評されることも。栄光から一転、故障との闘いで30歳での現役引退。マウンド上では喜怒哀楽を出さない左腕が引退会見で「後悔はありません。ただ、悔いはあります」と目を潤ませて言葉を紡ぎ、大きな反響を呼んだ。

 02年3月23日にオープン戦・オリックス戦(ナゴヤドーム)。試合前に引退セレモニーが行われ、今中は打席に立ったオリックス・谷佳知に対してすべて直球を投げ込み、4球目の110キロの高めの球で空振り三振に打ち取った。全盛期の直球には程遠いが、晴れ晴れとした表情で本格派左腕のこだわりが垣間見えた。奇しくもこの日の先発は長年ともにチームを支えてきた山本昌。投球後にマウンド上でがっちり握手を交わすと、グラウンドに別れを告げた。

写真=BBM
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