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メジャー史に残る個性的なフォームで日米815試合登板した鉄腕とは

 

鹿取コーチの助言で


巨人で中継ぎとして活躍した岡島


 現代は選手の個性を尊重し、独特のフォームも矯正されることが少なくなってきたが、一昔前は個性的な投球フォームや打撃フォームに首脳陣からメスが入れられることが珍しくなかった。その結果、輝きを失ってプロ野球界を去った選手は少なくない。だが、この投手は違う。リリースの瞬間に顔を下に向ける「ノールック投法」で日米通算815試合登板した岡島秀樹だ。

 アマチュア時代から岡島はこの投法だった。東山高ではセンバツに2度出場。直球がとにかく速い。一方で制球難でもあった。2年春にベスト16に進出し、3年春には優勝候補の一角と評されていたが、初戦の国士舘高に2対6で敗れる。岡島は初回に押し出し死球、押し出し四球、暴投で3点を失うなど8四死球の大乱調。快速球は高校球界屈指だったが、制球難が課題だった。

 巨人にドラフト3位で94年に入団後も、奪三振能力が高い一方で、四球が多い投球スタイルは変わらなかった。コーチたちは岡島がリリースの瞬間に捕手を見ないことが制球難の原因だとして矯正させようとしたが結果が伴わない。このときに「運命の人」と巡り合う。98年から巨人の二軍投手コーチに就任した鹿取義隆だ。鹿取は、岡島が投球中に捕手から目を切る頭の動きを修正せず、肩などの細かい部分の調整を指導することで低めへの制球力を磨かせた。

リリースの瞬間、捕手のミットを見ない独特の投法だった


 子どものころから投げていたフォームに鹿取の助言がプラスアルファされたことで、腕をできるだけ地面と垂直にするリリースポイントのコツをつかんだ。99年から救援で一軍に定着し、00年は故障で戦線離脱した槙原寛己に代わって抑えを務めて優勝に貢献。日本シリーズで胴上げ投手になった。01年も守護神を務め、25セーブをマーク。快速球と縦に大きく割れるカーブを武器に救援で奮闘した。

 巨人で救援投手としての価値を高めると、06年の開幕直前に實松一成古城茂幸との交換トレードで日本ハムへ。ヒルマン監督の下、新庄剛志らを中心とした伸び伸びとした空気が潜在能力を引き出した。セットアッパーで55試合に登板し、2勝2敗4セーブ20ホールド、防御率2.14でチームの日本一に大きく貢献した。

 同年オフ。FA権を行使してレッドソックスに移籍する。「岡島のあの投げ方はメジャーでは通用しない」と否定的な声も聞こえたが、努力と適応能力の高さで乗り越えた。メジャーの滑りやすいボールでは日本で多用していたカーブの制球が難しかったため、フォークに近い軌道で落ちる高速チェンジアップを新たに習得。強打者たちから面白いように空振りを奪い、「Oki-Doke(オキ・ドーキー)」と命名されて話題を呼んだ。また、カットボールも習得したことで制球力が格段に上がり、メジャー初年度の07年に66試合登板で3勝2敗5セーブ27ホールド、防御率2.22と抜群の安定感を見せる。同僚の松坂大輔とともに世界一に大きく貢献。07年から4年間で254試合登板と鉄腕ぶりを発揮し、84ホールドをマークした。

帰国後もメジャーに何度も挑戦


メジャーにもアジャストし、レッドソックスで中継ぎの一角を担った


 11年オフ、ヤンキースとマイナー契約が決まって招待選手としてキャンプに参加するつもりだったが、フィジカルチェックに引っかかってしまう。「自主トレでも調子よく過ごしていたのに、そこでダメと言われて、もう野球ができないのかな……そう思うと絶望的な気持ちになって涙が出ました。その矢先に日本からオファーがありました」。12年3月にソフトバンクに移籍、56試合に登板し、9セーブ、24ホールをを挙げて防御率0.94と好成績を挙げて日本一に貢献した。すると、13年に再びメジャーに再挑戦。

「1年契約で、その後アメリカに戻りたいということは最初から球団にも言っていたので分かってもらいました。ヤンキースのチームドクターが『岡島はもう投げられない』と全米に言ってしまっていたので、それは違うという証明もしたかった」

 アスレチックスでは5試合の登板に終わり14年、ソフトバンクに復帰。15年はDeNAに在籍し、同年限りで退団後も渡米してオリオールズでメジャー昇格を目指した。16年3月に自由契約になり、7月に自身のブログで現役引退を発表。「ファンの皆さんの力強い応援、本当に感謝しています。メディアの方にも色々お世話になり、迷惑もおかけしましたが、いい思い出が出来ました。本当にありがとうございました」と感謝の思いを綴った。

 岡島は10年に米国スポーツ専門サイトのブリーチャー・リポートが選出する「メジャーリーグ史に残る個性的なフォーム」で第4位(当時の現役選手では1位)にランクインしている。日米22年間の「最後の登板」は引退表明後の16年8月11日。古巣のレッドソックスが本拠地ボストンで開催したヤンキース戦で始球式を務めた。スタンドの総立ちのファンから拍手を受け、穏やかな笑みを浮かべて手を振っていた。

 NPB通算549試合登板で38勝40敗50セーブ74ホールド、防御率3.19。MLB通算266試合登板で17勝8敗6セーブ84ホールド、防御率3.09。日米でこれほどの立派な数字を残したリリーフ投手はほとんどいない。日米で記憶にも記録にも残る個性派左腕だった。

写真=BBM、Getty Images
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