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プロ入り後に投手から野手に転向 首位打者を獲得した「野生児」とは

 

プロでスイッチに挑戦


横浜時代の金城


 投手でバットを4年間握っていないにもかかわらず、プロ入り後に野手転向してスイッチヒッターで首位打者を獲得した選手がいる。DeNA巨人でプレーした金城龍彦だ。

 金城は大阪府出身。父の金城晃世は近鉄でプレーした元プロ野球選手だった。子どものころから身体能力は並外れていた。近大付高では投手で、同学年の藤井彰人(元阪神)とバッテリーを組んでいた。2年夏の大阪大会決勝では松井稼頭央福留孝介を擁するPL学園高を撃破して甲子園に出場。金城は「一番・投手」で中心選手として活躍した。

 高校卒業後は社会人野球・住友金属へ進んだ。150キロを超える速球と縦に割れる大きなカーブを武器に、96年に日本選手権優勝に導き、97年も優秀選手にも選ばれる。投手として評価する声が多かったが、プロでは野手で勝負したいという気持ちが強かった。

 打者として横浜(現DeNA)のテストを受け、ドラフト5位で99年に入団。地肩の強さ、俊足に目をつけたスカウトの眼力も称えられるべきだろう。入団を機に野手転向すると、もともと右打ちだったが、脚力を活かすためにスイッチヒッターとなった。社会人時代の4年間にバットを握っていないため、スイッチヒッターで成功するというのは誰も想像できない。それほど至難の業だった。だが、プロ2年目の00年に大ブレークする。

 シーズン途中から「二番・三塁」でレギュラーに定着すると、驚異的なペースで広角に安打を積み重ね、打率は一時4割を超えた。終盤に失速したが、打率.346とスイッチヒッターのシーズン歴代最高打率で首位打者、新人王を獲得。同時受賞はプロ野球史上初の快挙だった。オフにはテレビCMで女優の松坂慶子と共演して「時の人」になったが浮つくことはない。謙虚な人柄でチームメートにも愛されていた。

 スイッチヒッターは右と左で「人格が別人」と言われるが、金城ほど打ち方が違う選手は珍しかった。パンチ力がある右打席はバットを振り切り、ミート重視の左打席はフォロースルー直後に一塁へ駆け出す打撃フォームだった。上体を突っ込み気味にしながら打つのは非常に珍しかったが、ボールとの距離感をつかむためにはこのフォームが一番打ちやすかったという。独特の感性でワンバウンドしそうな低めの球も体勢を崩しながら安打にしていた。データでは測れない金城の打法に相手チームの捕手たちは悩まされた。球に食らいつき、常識では測れない打ち方をすることから「野生児」という愛称がつけられた。

最後は巨人でプレー


 ただ、プロの世界は甘くない。突如現れた新星へのマークは厳しくなる。01年は打率.271、02年は打率.170に落ち込むが、ここからはい上がった。03年は打率.302、自己最多の16本塁打を放つなど同年から打率3割を3年連続マーク。05年はロバート・ローズの球団記録にあと1本と迫る191安打、自己最多の87打点を記録した。打撃だけではない。外野の守備でも俊足を生かした広い守備範囲と強肩で球際に強く、ゴールデン・グラブ賞を初受賞した。

 06年は第1回WBC大会に出場。日本代表として世界一に貢献した。球界を代表する中距離打者としての地位を確立し、攻守で不可欠な存在として横浜を支えた。サヨナラ打は球団タイ記録の8本と劇的な一打が多く、応援歌の「見せてくれ 見せてやれ 超スーパープレイを ハマの風に乗った男の意地を」は金城を象徴する歌詞として他球団のファンの間でも人気だった。

 横浜で16年間プレーし、14年オフにFA権を行使して巨人に移籍。15年限りで現役引退した。同年オフに巨人のファンフェスタで引退セレモニーが行われ、金城は「1年間という短い時間ではありましたが、素晴らしい選手たち、ファンの皆さまと戦えたこと、本当に幸せでした。今までご指導下さいましたすべての皆さま、横浜時代から応援いただいたすべての皆さま、本当にありがとうございました」と頭を下げた。両親、妻、3人の子どもたちの名前を挙げて感謝を口にした。決して多弁ではないが、実直で礼儀正しい金城の性格が現れたスピーチ。東京ドームで大きな拍手が送られ、横浜ファンからもネット上で感謝の書き込みが殺到した。

 通算1892試合出場で打率.278、104本塁打、40盗塁。17年間の現役生活で積み上げた通算1648安打には大きな価値がある。

写真=BBM
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