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週べ60周年記念

近鉄・永淵洋三のプロ入りの本当の動機/週べ回顧1972年編

 

 一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。

はっきりしなかった故障の状態


近鉄・永淵洋三


 今回は『1972年4月10日号』。定価は120円。

 延岡でのキャンプ中の2月18日に右肋骨を亀裂骨折し、自宅療養していた近鉄・永淵洋三。そのリハビリ中の手記が載っていた。

 スイングの際、わき腹に違和感があって病院でレントゲン撮影するも、原因が分からず、東京の吉田増蔵接骨師のもとへ行き、「亀裂骨折」と言われたらしい。
 そこで1週間の治療を受け、「治った」と言われ練習を再開したが痛みが再発。大阪の違う先生に診てもらうと、今度は「肉離れ」と言われ、途方に暮れていたようだ。
 こんな中、永淵が「酒が飲めないのだけがつらい」と言っていた話は以前紹介した。

 手記の中にプロ入り時の話があった。知っている人も多いと思うが、紹介しておこう。
 プロ入りは、永淵自ら知り合いの近鉄関係者に「プロでやってみたいのですが、どんなものでしょうか」とお願いしたものだった。
 足元を見られたわけでもないだろうが、ドラフトでは2位で指名されながらも、契約金はかなり低かったらしい。
 ただ、
「それでも、そのときもらった契約金は自分にとっては大金だった。おかげで飲み屋にたまっていた借金だけは払うことができた。これも、いまだからいえる話だが、ほんとのプロ入りの動機は、この借金を払いたかったからでもある。
 なんせ東芝での給料は3万円ちょっと。これでは何年たっても払いきれないだけの借金が飲み屋にたまってしまっていた。変な話ではあるが、これを全部払ってしまいたいというのが、プロ入りの本当の動機だったかもしれない」
 ちなみに、当時プロで、どんな結果を出したかったかについては「球団の人に聞かれたら怒られそうな話だが、たとえ二軍でも東芝より給料の高いプロで、なんとか3、4年クビにならないようにやっていければそれでいい、ぐらいの気持ちでしかなかった」という。

 プロでは酒量を減らしたかというと、
「(首位打者も獲って今は)おかげで給料もがっぽりあがった。好きな酒もつけを考えなくても飲めるようになった。自分の酒好きは、有名になってしまったけれど、プロに入ってからも酒の量は減っていない」
 だったらしい。つけで飲むと言うのも昭和、それも40年代くらいまでの話だろうか。
 
 では、またあした。

<次回に続く>

写真=BBM
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