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マスコミ嫌いで悪童の異名も…ナインから愛された「日本球界最速」右腕は

 

絶対的な威圧感


尽誠学園からドラフト1位でロッテに入団。剛腕として大いに期待された


 ただ球が速いだけではない。理論派で制球力を重視した投手に見事にモデルチェンジを果たした稀有な投手だった。メディアとの関係が良好でなかったため、「悪童」とも揶揄されたが、純粋な性格で根は優しくナインから愛された。日米通算106勝をマークした伊良部秀輝だ。

 沖縄県コザ市(現在の沖縄市)で生まれた伊良部は幼少期に兵庫県尼崎市に移り住んでいる。高校は野球留学で香川の尽誠学園へ。2年夏、3年夏と甲子園に2度出場し、1988年にドラフト1位でロッテに入団した。

 高卒1年目から14試合に登板。球が速い上に球質が重い。プロの打者たちが「球速以上の速さを感じるし打球が飛ばない」と驚いた。特に西武清原和博との対決は「平成の名勝負」と呼ばれ、伊良部もスイッチが入ったのだろう。4年目の91年に対決した際に156キロを計測すると、6年目の93年5月3日の対決では当時日本人最速の158キロを叩き出した。

ロッテ時代、若かりしころのオフショット


 入団当初は制球面に課題があり、好不調の波が激しかったが、研究熱心でフォームを改良することへのこだわりが並外れていた。球の精度が高まり、安定感が増していく。先発ローテーションに定着した94年に15勝10敗で最多勝を獲得。投球回数207回1/3、239奪三振といずれもリーグトップだった。95年は11勝11敗、防御率2.53で最優秀防御率、2年連続最多奪三振、96年も12勝6敗、防御率2.40で2年連続最優秀防御率と球界を代表する投手としての地位を確立した。当時、対戦相手の西武に在籍していた鹿取義隆は週刊ベースボールのインタビューに、「伊良部の投じるフォークボールは野茂英雄よりも上」と高く評価。「フォークで140キロ台後半が出るのは威圧感があった」と分析し、打席から戻ってきた選手たちが「あの速さで落ちてきたらまったく打てない」と脱帽していたことを明かしている。

 96年オフに伊良部の去就を巡り、日米を巻き込んだ騒動が起きる。中学時代からの夢だったヤンキースへの入団を希望したが、ロッテは提携球団のパドレスに伊良部の保有権を永久的に譲渡する契約を交わした。しかし、伊良部はヤンキースへの入団にこだわった。最終的に三角トレードという形でヤンキースに入団。一連の出来事は大きな波紋を呼んだ。MLBの他球団から機会均等を求める声が上がり、日本球界でポスティングシステムの制度導入につながった。

メジャーへ移籍したが……


念願のヤンキースに入団した伊良部


 メジャー初登板初先発となった97年7月10日タイガース戦。7回途中2失点9奪三振の快投で日本人初のメジャー初登板初先発初勝利をマークする。ジョージ・スタインブレナーオーナーから「和製ノーラン・ライアン」と称されたが、その後の登板では打ち込まれるケースが目立つ。降板する際にブーイング中のファンに向けてツバを吐きかけたことが話題になった。それでも在籍2年目に13勝、3年目に11勝をマーク。ただ、夢見ていた場所で投げていた伊良部に対し、ヤンキースのファンから「ヒール」のイメージがついていた。繊細な性格だった伊良部の耳にも当然入っていただろう。99年オフにトレードでエクスポズに移籍する。

 エクスポズでは度重なる故障で思うように投げられなかったが、レンジャーズに移籍した02年は3勝16セーブをマーク。同年オフ。阪神の監督だった星野仙一のラブコールを受けて阪神へ、7年ぶりに日本球界に復帰する。星野監督は守護神での起用を考えていたが、伊良部は先発を希望。03年に13勝をマークして18年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献した。直球は全盛期の速さはなかったが、変化球を織り交ぜて打者心理を見透かす投球術で試合をきっちり作る。円熟味が増した投球に他球団のベテラン投手たちから一目置かれた。

2003年には阪神で18年ぶりのリーグ優勝に貢献した


 ただ、輝きが長く続かない。翌04年。春季キャンプ中に泥酔暴行事件が報じられ、30万円の罰金処分を受ける。この年は3試合の登板に終わり、戦力外通告を受けて退団。無所属の状態が続き、05年の開幕直前に現役引退を表明する。

 渡米して実業家として活動していたが、かかとを浮かせた投球フォームから地に付けたフォームに改良して持病の右ヒザ痛が消えたことから、現役復帰を決断する。09年に北米独立リーグのロングビーチ・アーマダに入団して5年ぶりに現役復帰。3カ月後の8月に四国・九州アイランドリーグの高知に入団する。9月に右手首腱鞘炎で全治3週間と診断されシーズン中の復帰が困難となったため、伊良部の希望で退団したが2試合に登板している。

 10年1月。2度目の現役引退を表明する。「ボールを置くことにしました」と題したブログで、「アスリートとして“老い”というものが現実に迫ったと受け止めるしかない。第二の人生を考えていきたいと思っています。今後、野球界に何らかの貢献をする機会に恵まれたなら、全精力をつぎ込んで取り組んでいきたいです」と綴った。

 マスコミには度重なるトラブルで腫れ物のように扱われていたが、ナインからの人望は厚かった。会食の席では楽しそうに野球理論を熱弁し、後輩の指導にも親身だった。将来は自身の知識や経験を生かしてNPBの球団でコーチになることを望んでいたという。一方で、飲酒によるトラブルも多かった。警察沙汰になることもあり、他球団は伊良部の実績を高く評価しながらもコーチ就任に踏み切れなかった。

 悲劇は2011年7月27日に報じられた。ロサンゼルス近郊の自宅で亡くなっているのが発見される。血中から大量のアルコールが検出され、地元警察の捜査で自殺の可能性が高いとされた。巨体の風貌で豪快に見えるが、真面目で繊細な性格だったため精神的に追い詰められてしまったのだろうか。享年42歳。早過ぎる死だった。

写真=BBM、Getty Images
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