一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 外木場にノーヒットノーランを達成された後……
今回は『1972年5月15日号』。定価は100円。
巨人屈辱の夜から始まる長い記事があった。今回は、そのさわりを紹介する。
1972年4月29日、
広島球場での広島─巨人戦で、広島・
外木場義郎が巨人・
沢村栄治に並ぶ3度目のノーヒットノーラン(外木場は完全試合1を含む)を達成。速球と大きなカーブを軸に7回二死まではパーフェクトの快投だった。
試合途中の8回表、先発で投げ合った巨人・
渡辺秀武がベンチ裏に現れ、
「どうもやられそうな気がする。僕と外木場は因縁があるから…」
と言った。
70年5月18日、渡辺は後楽園の広島戦でノーヒットノーランを達成。そのときの相手が外木場だった。
「あのとき外木場は嫌な思いをしたはず。でも、今度は逆になりそうな気がします」
最後は高田繁の捕邪飛でゲームセット。巨人にとっては64年、
中日の中山に抑えられて以来のノーヒットノーランだった。
巨人は、これで開幕から7勝6敗。もともと出だしが悪いチームではあるが、投手陣の状態がなかなか上がらず、不安たっぷりのスタートとなった。
試合後、巨人ナインの悔しがり方は相当なものだった。
福田昌久コーチは言う。
「僕はもし平気で帰ってくるやつがいたら、ぶんなぐってやろうと思っていましたよ。でも、幸いそんなヤツはいなかった」
当初は、お通夜のようだった宿舎の雰囲気が変わったのは、テレビのスポーツニュースで試合が流れた後だ。
川上哲治監督ではなく、
長嶋茂雄兼任コーチを中心に野手が集まり、長い反省会が始まった。
川上監督は春季キャンプで、こう言っていた。
「自慢になるかもしれないが、私はそういう教育をしてきたつもりです。だから悪いときは悪いときなりに、ベテランたちが先頭になって反省会を開いてくれる。しかし、これは何も私の代になってからのことではない。長い巨人軍の歴史の中で、風雪に耐えてやってきた先輩たちが残してくれた伝統なんです」
これは長嶋、さらに森昌彦兼任コーチが選手たちを集め、勉強会を開いていたことに対しての言葉だった。
この記事の続きは、またあした。
<次回に続く>
写真=BBM