一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 集大成に動く川上哲治監督
今回は『1972年5月15日号』。定価は100円。
前号の続き。
7連覇の巨人は主力と若手の力の差がある、と言われた。
これは若手の力がないというより、主力を固定したため、若手のチャンスが少なく、頭角を現しづらかった、という意味もある。多摩川(二軍)にはダイヤモンドの原石がゴロゴロしているとも言われたが、それは決して誉め言葉ではない。
また、投手陣には
堀内恒夫はいたが、それに肩を並べる存在がなかなか出てこなかった。
川上哲治監督も自身の退任後を見据え、
長嶋茂雄、森昌彦を兼任コーチに据え、長嶋への引継ぎの準備、投手陣の底上げに取り組み始めた年でもある。
その一つが、オープン戦遠征の部屋割だ。
長嶋の部屋には当初、堀内、その後、
高橋一三に変わった。王の部屋には当初、
菅原勝矢、その後、堀内といった具合だ。
川上監督は、堀内、高橋一にONのように投手陣を引っ張る存在になってほしかったのだろう。
試合中の長嶋の変化もある。
内野の球回しの際、時に活を入れるかのように、ビシッと速い球を相手の胸に投げ込むことがあった。さらにピンチで内野手がマウンドに集まった際、一人背を向けることもあった。
「みんながみんな集まってやることもない。誰かが言ってやるときは、誰かが冷たく突き放すべきだ。あまりみんなで慰めるのは過保護的でいけない。憎まれ役は常に一人くらいいてもいい」
バットでは4月30日現在、打率.311、2本塁打とまずまずの出だし。ただ、審判団の思わぬクレームに悩んでいた。
以前も書いたが,スピードアップが叫ばれる中、審判から「長嶋が打席を外し過ぎる」の声が挙がったのだ。
長嶋は珍しく憤る。
「それはおかしい。俺の打席に外し方は両足じゃなく、左足だけ。これはメジャーでもやっていることだ。スピードアップには俺も協力している。これがリズムを生んでいるんだ。俺は変える気はない」
では、またあした。
<次回に続く>
写真=BBM