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プロ野球回顧録

高校まで硬式未経験もプロで通算84勝 野村克也氏が絶賛した右腕は

 

最初は柔道部に入部


西武から日本ハムに移籍後、能力が開花した柴田


 プロ野球に入る経歴はさまざまだ。ただ、高校まで硬式野球の経験がない選手はなかなかいない。しかも、プロで通算84勝と立派な数字を挙げている。黄金時代の西武を苦しめたことでも知られる日本ハムの柴田保光だ。

 柴田と野球の出合いは島原農高のとき。最初は柔道部に入部したが、毎日のように投げられてばかりで嫌になった。顧問の先生に「退部させてください」と申し出たら、「ほかの運動部に入るなら許してやる」と言われ、近所の先輩が所属していた軟式野球部を選んだという。

 投手として天賦の才があったのだろう。高校卒業後、名古屋に拠点を置く社会人野球・丹羽鉦電機に誘われて初めて硬球を握った。柴田はベースボールマガジンの取材に、「僕は野球を始めたのも高校からだったし、それも軟式野球部だったので。社会人に行ってからですね。初めて硬式球を握って、『プロに行きたいな』と思って、毎日走り始めたんです。球のスピードはあったけど、コントロールはからきしだったから」と振り返っている。

 ところが、入社間もなくチームが廃部に。島田誠川原昭二(ともに元日本ハム)らと一緒に地元・九州であけぼの通商を立ち上げ、ノンプロ時代はチーム存続のため行商をしていた。身長185センチの長身でしなやかなフォームから投げる快速球を武器に評価を上げると、プロのスカウトが注目する存在に。1979年ドラフト2位で西武に入団する。

 将来のエースとして期待されたが、制球難でなかなか一軍に定着できなかった。在籍5年間で8勝のみ。プロ2年目まで西武で同僚だった野村克也は著書の中で、「腕の振りがムチのようにしなって、ボールをリリースする瞬間の指のかかり具合とか見ていて惚れ惚れした。将来、西武の屋台骨を支える投手になるだろう思っていたら、その後、フォームが変わっていてスピード、キレが落ちていて彼の良さが消えていた」とつづっている。

 転機は83年オフ。江夏豊との交換トレードで木村広とともに日本ハムに移籍する。金山勝巳投手コーチの助言で真上から投げ下ろしていた投球フォームをサイドスロー気味のスリークォーターに改造したところ、制球力が大幅に向上。直球の球速は落ちたが、スライダー、シュート、カーブと多彩な変化球でかわす技巧派に変身した。移籍2年目の85年に11勝を挙げると、86年もチーム最多の14勝をマーク。87年に右ヒジ血行障害の手術を受けたが翌88年には復帰し、先発の屋台骨を支え続けた。12勝をマークした90年、4月25日の近鉄戦では東京ドーム、平成でともに初のノーヒットノーランを達成している。

突然訪れた現役生活の終わり


90年4月25日の近鉄戦ではノーヒットノーランを達成


 優勝に縁がなかったが、黄金時代の西武キラーとして名を馳せた。91年は渡辺智男(西武)にわずか0.13及ばず2位だったが、防御率ベスト10入りを5回果たしている。心身ともに充実していたが、現役生活の終わりは突然訪れた。94年の春季キャンプ前日に、雪道をランニングしていたところ心筋梗塞の発作に見舞われた。退院後に練習を再開したが、ドクターストップがかかり同年限りで現役引退。通算成績は346試合登板、84勝97敗13セーブ、防御率3.49。日本ハムで投手コーチ、野球評論家を経て、現在は什器のレンタル・リース業最大手である「株式会社山元」でサラリーマン生活を送っている。

 柴田はベースボールマガジンでパンチ佐藤と対談した際、このようなメッセージを送っている。

「今プロ野球界にいる人たちには、その『今』を大事にしてほしいと思いますね。今、プロ野球生活を一生懸命送っていれば、野球が終わったあともなんでもできます。一般社会に出たら、忍耐強くないといけないですからね。その忍耐強さはプロで身につくものだし、それから選んだ道ではなるべく一つのことに執着して、また一生懸命やってほしいと思います。昔の栄光ばかり追わず、一社会人として堅実に生きてほしいですね」

 酸いも甘いも経験した右腕の言葉には重みがある。

写真=BBM
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