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背番号物語

【背番号物語】巨人「#4」プロ野球で最初の永久欠番。巨人の危機を救った男の悲劇と奇跡

 

44年に巨人へ移籍


巨人での黒沢の背番号「4」は史上初の永久欠番となった


 あまりにも突然の悲報だった。1947年6月。プロ野球が再開されて2度目のペナントレース、その真っただ中だ。「痔が悪いようだ」と入院した巨人の黒沢俊夫が、その1週間後の23日に死去した。穏やかな性格でチームメートに慕われていた黒沢。ナインが総出で見舞った、すぐ後のことだったという。遺言は「俺が死んだらユニフォームを着せて葬ってくれ」だった。そのユニフォームの背中にあったナンバーは「4」。読みが“死”に通じると忌まれて欠番にしているチームはライバルの阪神をはじめ当時から多かったが、そんな巨人の「4」は、プロ野球の歴史で奇跡を起こし始める。

 黒沢の急逝から16日後の7月9日、巨人は「4」を永久欠番に制定する。これが、プロ野球における永久欠番の始まりだ。近年は選手の功績をたたえて引退とともに制定されるイメージが強い永久欠番だが、最初は黒沢への哀悼のためだった。チームメートで、のちに長嶋茂雄へ「3」を譲った千葉茂は「永久欠番は、ひとえに黒沢の人柄。誰からも慕われた男で、それを球団も分かっていた」と振り返っている。その47年シーズンは黒沢にとって巨人3年目のシーズン。ほかの永久欠番と比べても、在籍した期間の短さは圧倒している。巨人ひと筋の生え抜き選手でもなかった。それでも永久欠番となったのは、黒沢の人柄が呼んだ奇跡だったことも確かだろう。ただ、人柄だけでの男ではない。タイトルはなく、優勝にも縁がなかったが、もし黒沢がいなければ、巨人は歴史に消えていたかもしれない。それほどの存在だった。

 黒沢はプロ野球が始まった36年に金鯱の結成に参加。金鯱は名古屋に誕生した2番目のチームで、同じく36年からペナントレースを戦っている東京セネタースが改称した翼と合併して41年から大洋となり、西鉄となった43年いっぱいで解散した。大洋も西鉄も戦後のホエールズ、ライオンズとは別のチームだ。黒沢は36年から「4」を背負っていたが、37年オフに応召。40年に復帰してからは「3」となるも、ふたたび41年オフに応召、43年に西鉄となったチームへ復帰したときにも「3」を着けている。だが、そのオフにチームは解散。戦局の悪化により、プロ野球は深刻な状況へと追い込まれていた。

 巨人も例外ではない。次々に選手が応召していき、「3」の中島治康ら主力が「もはや野球どころではない」と辞表を提出。43年オフに残った選手は6人だけだった。少なくとも1チームに9人が必要なのが野球というスポーツ。巨人も黒沢のいた西鉄と同じ運命を迎える可能性もあっただろう。巨人は他チームの選手は獲らないという不文律を破り、存続に努める。そんな巨人へ、44年に移籍してきたのが黒沢だった。黒沢は全試合に出場して、一番打者としてリーグ2位の打率.348をマーク。まさに救世主だった。ただ、その44年は背番号が廃止された唯一のシーズン。黒沢と巨人の「4」との出合いは戦後を待つことになる。

起源は初代の“四番”打者


 翌45年はプロ野球が休止となったが、46年にプロ野球が再開されると、黒沢は「4」でチーム引っ張っていく。

【巨人】主な背番号4の選手
永沢富士夫(1936〜43)
黒沢俊夫(1946〜47)

 巨人の「4」は、プロ野球が始まる前年、大日本東京野球倶楽部だった35年に日系人の堀尾文人が着けたのが最初。巨人となった36年に「4」を着けたのは巨人の初代“四番”打者として名を残す永沢富士夫で、43年いっぱいで引退するまで一貫して「4」を背負い続けている。もともと「4」の経験があった黒沢だが、巨人で背負った「4」には、チームの主軸を担う選手という横顔もあったはずだ。黒沢は四番打者タイプではなかったものの、韋駄天ぶりでは他を圧倒した。本盗は44年のゲーム2度を含む通算10度で、これは歴代2位の数字として残る。黒沢の死は巨人にとって大きな損失だった。

 ちなみに、メジャーで最初の永久欠番も「4」。29年にヤンキースが野球界で初めて背番号を採用したときから一貫して背負っていたルー・ゲーリッグのナンバーだ。また、黒沢の「4」とともに、あらためて戦火に消えた沢村栄治の功績も顧みられ、坂本茂が着けていた沢村の「14」も永久欠番となっている。沢村賞が始まったのも、その47年からだ。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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