3年前に創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 優勝争いの台風の目となっている阪神だが……
今回は『1972年7月3日号』。定価は100円。
優勝争いの台風の目になっていたのが阪神。
ただ、ネット裏にいた元監督の藤本定義は、
「考える野球が阪神にはなさ過ぎる」
と嘆く。
たとえば6月9日の
巨人戦(甲子園)の敗北。阪神打線は、巨人の
堀内恒夫相手にわずか2安打、2個の四球に終わった。藤本は言う。
「この試合の堀内は、いつもに似合わずストレートのコントロールがいい。いつもの堀内だとカーブでカウントを稼いでストレートで勝負に来るのに、この日は逆だ。こんなときの堀内はストレートを狙って攻略するしかない。金田(
金田正泰ヘッド)や藤井(コーチ)はそれを知っているから口を酸っぱくて選手に指示をしているはずだ」
確かに阪神は毎回にように選手をベンチ前に集め、金田コーチが何事か指示していた。
ただ、やっていたのはカーブを引っ掛けての凡打の山。要は真っすぐの制球が悪いときは、ストライクを取るため、甘いカーブになりがちだが、真っすぐでストライクを取るときは、安心して、ボールにできるからコースも厳しくなるということだろう。
藤本は1962、64年と阪神を率いリーグ優勝している。ならば、当時の阪神打線は考える野球を身につけていたのか、と聞くと、藤本は苦笑し、
「そうでもなかったな」と言う。
「あのときの優勝は100パーセント投手陣におんぶにだっこ。村山(
村山実)─小山(
小山正明)、村山─バッキーだから。顔ぶれは変わったが阪神の野球そのものはあのころと、あまり変わっていない」
藤本はこうも言う。
「巨人がやっているドジャースの野球は本来阪神が取り入れるべきものなのです。甲子園のように広いグラウンドはホームランが出にくい。だから得点は単打が多くなる。そのヒットを効率よくするために機動力をフルに発揮する。これが広い球場を本拠地にするチームにもっとも適した野球なのだ」
当時の阪神のスタメンに足を使える選手はほぼいない。確かに田淵幸一は、甲子園の広さと関係なく、ホームランを打つが、彼は特別だ。
では、またあした。
<次回に続く>
写真=BBM