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プロ野球回顧録

史上初の入団3年間で計150本塁打「カリブの怪人」と呼ばれたアレックス・カブレラ

 

規格外の飛距離を誇る打撃


02年には55本塁打を放ちタイトルを獲得した


 これほどの衝撃を与えた外国人は数少ないだろう。西武オリックスソフトバンクの3球団で来日通算357本塁打を放ったアレックス・カブレラ

 カブレラのキャリアは決して順風満帆ではない。91年5月のドラフトでカブスから指名されたが、マイナー暮らしが続き、96年12月に退団する。メキシカン・リーグ、台湾球界と転々として、00年にダイヤモンドバックスと契約。メジャー初打席初アーチの鮮烈デビューを飾るが、その後は失速して31試合出場で打率.263、5本塁打と平凡な数字に終わる。西武に移籍したのは同年オフだった。

 来日1年目の01年。その圧倒的な長打力で社会現象になるほどの活躍ぶりを見せる。64試合で30本塁打到達とプロ野球タイ記録を作るなど、NPB1年目の最多記録となる49本塁打をマーク。打席で構える際に背中を後方に反る独特の構えから豪快なアッパースイングで打球を飛ばす。5月26日のダイエー戦(西武ドーム)で若田部健一のフォークボールをすくい上げた打球は、西武ドーム左翼側の屋根に直撃して場外の通路へ落ちる170メートル弾。8月12日の近鉄戦(大阪ドーム)でも左翼席後方の壁にぶち当てる特大の一発を放ち、「壁に当たらなければ190メートルは行っているよ」と涼しい表情を浮かべた。球宴でも阪神井川慶から横浜スタジアムの場外に飛ばす一撃を放った。

 来日2年目の02年は打率.336、55本塁打、115打点と当時の本塁打日本タイ記録を樹立する。このシーズンは高めにストライクゾーンが広がる新ストライクゾーンの導入もあり、リーグ総本塁打数が前年から150本以上減少するなど投高打低だったが、カブレラには関係なかった。3年目の03年も2年連続50本塁打を放ち、3年間で150本塁打以上を記録した史上初の選手となった。04年はオープン戦で右手首に死球を受けて骨折したが、戦列復帰した6月下旬以降に64試合で25本塁打と驚異的なペースで量産。日本シリーズでも3本塁打の活躍でチームを日本一に導いた。

 そのパワーは規格外だったが、力任せに振り回すのではなく追い込まれたらミート重視の打撃で安打を放つなど確実性も高かった。コメントからも理論派の一面が垣間見える。

「確かにレフトへのホームランは多いよね。結果的には引っ張っているかもしれないけれど、それは気持ちを右中間に置いている中で、たまたまインコースにボールか来て自然に体が回転してレフトへのホームランになっているんだよね。自分の懐にボールを呼び込む、ということが重要なんだ。そして、それが今できている」

四番らしい強固なメンタル


08年から10年まではオリックスに在籍し、ラロッカ(左)、ローズ(中)と“ビッグボーイズ”を形成


 当時西武の監督だった伊原春樹氏は週刊ベースボールのコラムでカブレラをこう評している。「自分が打てず、さらにチームが勝てないでいるときのプレッシャーは想像を絶するものだ。だからこそ、四番は強固なメンタルを持たなければいけないが、カブレラはそのあたりは抜群だった。どんな状況になっても、平気な顔をして『明日、明日』と気持ちを切り替える。どこまでも前向きな選手だった」、「さらに、真の四番に必須の勝負強さも兼ね備えていた。例えば当時はダイエーと優勝を争うことが多かったが、常に競ったゲーム展開で終盤を迎えていた。8、9回、カブレラが起死回生の本塁打を打ってくれることが多々あった。とにかく貴重な一打が非常に多かった印象だ」。

 07年まで西武でプレーし、オリックスに移籍。タフィー・ローズとのコンビで主軸として活躍すると、11年にソフトバンクに移籍。12年限りで退団した。日本通算12年間で1239試合出場、打率.303、357本塁打、949打点。カブレラの打球は飛距離がすごすぎて屋根に当たり、本塁打とカウントされなかった一打が少なくない。残した数字以上に与えたインパクトは強烈だ。背中を後方にのけぞる構えを中日平田良介日本ハム中田翔が大阪桐蔭高時代に模倣するなど球児たちに与える影響力も大きかった。助っ人外国人の枠に収まらず、00年代のパ・リーグの「豪快な野球」を象徴する長距離砲だった。

写真=BBM
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