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プロ野球回顧録

光った天才的な内角打ち 肝炎を克服した阪急の“小さなスラッガー”石嶺和彦【プロ野球回顧録】

 

練習時間を制限されながら


得意な内角打ちは体の近くで打つことを意識したという石嶺(阪急時代)


 リストが効いたスイングと体の回転で、卓越した内角さばきを見せた、阪急の強打者が石嶺和彦だ。

 豊見城高時代は四番・捕手として甲子園をにぎわせ、ドラフト2位で1979年阪急入団。左ヒザ半月板損傷で捕手の道を断たれ、84年からは外野手にコンバート。85年にパ・リーグ最多タイ記録となる6本の代打本塁打を放ち、86年にはDHのレギュラーとなり、当時のプロ野球最多記録の56試合連続出塁をマークした。

 打率.300、33本塁打で初のベストナインに輝いた86年のオフ。大好きな酒を連日飲み歩いていた石嶺だったが、変調を感じ検査を受けたところ、肝炎が発覚した。翌87年は、キャンプでも練習時間を制限されたが、500ccの点滴を1日2回続けながら戦列復帰すると、4月には4割を超える打率をマーク。最終的に、生涯最高打率の.317で打点も91、2年連続のベストナインにも輝いた。

 阪急がオリックスに変わった89年は、DHに定着していた石嶺にライバルが出現。前年、南海のDHとして2冠王に輝いた門田博光だ。この年、DHと外野の併用にリズムを崩した石嶺は成績不振に終わった。

「守備に神経を使ったのは事実。何とかうまく見せようって。それがバッティングに影響したのでしょう。でも次の年は気持ちを切り替えた。どうせ下手なんだから、エラーしても仕方ない。ベンチも俺の守備には期待していないんだから」

 そう考えると、気持ちがスーッとしたという。翌90年、得意な打撃に集中した石嶺に、前年のような迷いはなくなっていた。初タイトルとなる打点王(106打点)に、2冠こそ逃したが、リーグ2位タイの37本塁打と結果を残してみせた。

阪神時代の石嶺


 93年オフにFAで阪神に移籍。阪急・オリックス時代ほどの数字は残せなかったが、1年目はチーム最多の77打点。6年連続の全試合出場を果たす。しかし徐々に出場機会が減り、96年限りで現役を引退した。

写真=BBM
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