3年前に創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 まだ現役でやれる
今回は『1972年12月18日号』。定価は100円。
ダリル・スペンサーが阪急をクビになり、言いたい放題言って帰国した。
1964年に入団したスペンサー(初出修正。すみません)は、その圧倒的な打力だけでなく、メジャー流の考える野球を阪急に伝えた。これは作戦面から相手のクセ盗みまで、さまざまで、阪急黄金時代の礎にもなった。
本人も自信たっぷりで、いつも、
「ブレーブスが優勝したのは、ニシモトの采配がよかったからではない。ニシモトが俺のパーセンテージ野球を理解したからだ」
と、ことあるごとに言っていた。ただ、この上目線が、
西本幸雄監督に面白いわけはない。
さらに負けた翌日など、西本監督が近くにいるのに、
「ニシモトはまだパーセンテージ野球をよく知らない。ニシモトの作戦ミスで負けた。オレのアドバイスなどまったく耳を貸さない」
とまくしたてたこともある。
途中からは一触即発になっていた。
71年からプレーイングマネジャーとして復帰したが、結果的にもめたのはカネだった。
「オレの昨年の年俸は1200万円で先発出場のたびに5万円つけてくれた。ところが今年は年俸を800万円にカットされた上にスタメンの手当もカットされた。三宮のマンションも15万を全額球団が負担してくれたのに、今年は11万円しか持ってくれなかった」
とかなり細かい。ちなみに71年は54試合の出場だった。
すでに43歳の年齢もあったが、
「野球は力だけでやるものではない。力だけで40本も50本もホームランが打てるなら、プロレスラーか重量挙げ選手を連れてくればいいんだよ。野球は力ではなく頭と自信だよ。
オレはまだ現役でばりばりやれる自信がある。ウイチタの実家に帰っても、日本の球団からのうれしい電話か手紙を待っている」
とのことだった。
では、またあした。
<次回に続く>
写真=BBM