3年前に創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 梶原一騎はなぜ巨人の星を書いたのか
今回は『1973年1月15日号』。定価は120円。
今回の巻頭は巨人・王貞治と劇画作家梶原一騎の対談。
まずは梶原が『巨人の星』を書いたきっかけから。
「あのころ、つまらない怪獣映画とかそういうものがね、めためた氾濫していてね。それまで小説の読者だった人がみんな活字が嫌になって、めんどうくさくて読まなくなっちゃった。そうなった以上は一つ小説を代行するような劇画が出てこなくちゃだめじゃないかというわけだ。
それであれはちょっと劇画の常識から言ったら、理屈が多くて難しいんだけどね。まあ、「ああ玉杯に花うけて」(一高寮歌)みたいな内容でやろうじゃないか。で、やる以上は一番ポピュラーな、人気あるものを持ってきてやらなければダメだということになってね。
だから別にあの星
飛雄馬は、野球の選手じゃなくてもよかったわけよ。東京に出てきて血の涙を流してやったということなら。だけど、やっぱり野球が一番ポピュラーで、しかもその中の巨人というのでああなったわけ」
一方、王は71年、打率.276と不振に陥り、72年も不振が続いたが、終盤になって覚醒。7試合連続本塁打もマークした。
これについて王はこのように言っている。
「自分のバッティングというものに対する考え方が、いままではどうもガチガチでね。それこそ四角な角がもう、いわゆる角じゃなくてもっととんがっているような感じの角だったけれども、それが感覚的に自分で、何か丸くなったような気がしますね。その角が取れたというのは、性格的にじゃなくて、バッティングに対する考え方ですよ。僕は今までパーフェクトなものじゃなかったらダメだという考え方だったから」
とメンタル面を強調した。70年オフ、恩師・
荒川博が巨人を退団。一人になったことで、より技術を突き詰め、自分で自分を窮屈にさせていたということだろう。
最後、梶原に「三冠王は?」と聞かれ、
「ええ。今年あたり、ぜひ実現したいですね。機は熟した」
王はきっぱり言い切った。
では、またあした。
<次回に続く>
写真=BBM