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プロ野球回顧録

1983年、西武・田淵幸一が味わった天国と地獄……そして最大の歓喜【プロ野球回顧録】

 

まさかの死球離脱


83年の田淵。すさまじいペースで本塁打を量産したが……


 阪神時代、世界のホームラン王・王貞治(巨人)の最大のライバルと言われ、1975年には王の連続本塁打王を阻止し、43本塁打でホームラン王にも輝いた田淵幸一。しかし79年、追われるように新興球団・西武へ。2年目の80年には43本塁打を放ったが、82年に就任した広岡達朗監督には「守れない、走れないでは使えない」とボロクソに言われ、一時は引退を覚悟したこともある。

 しかし、球界の誰もが性格の良さを認める田淵は、同年「優勝」「日本一」の美酒を味わわせてくれた広岡達朗に心酔してしまった。その言葉の一つひとつが腑に落ちた。広岡監督が好きだという蘭を育て始めたのも、それが広岡監督を知ることにつながると思ったからだという。

 83年を前に、36歳の田淵は「今年はタイトルはいらない。チームが勝てばいい」と言い切った。

 そして、実際に打つ。

 4月は2本に終わったが、5月に13本、6月に12本、7月に入り、少しペースは落ちたものの、10日には29号本塁打だ。「これは60本ペース」と随分、騒がれた。

 西武球場は当時としては広く、レフト方向の打球へのアゲインストの風がよく吹いた。実際、田淵は最終的にホームで12本塁打、ビジターで18本。「西武球場が本拠地じゃなかったら、あと10本は増えていたよ」とこぼしていたこともある。

 しかし、7月13日の近鉄戦(日生)で、すべてが暗転。柳田豊から死球を受け、左手首尺骨骨折で全治4週間と言われた。それでも田淵は「打ちにいっていたから避けられなかった。避けるのが下手なんだよ」と投手を責めなかった。

最後まであきらめずに


7月13日の近鉄戦で死球を受け、顔をしかめる


 結局、復帰は長引き、10月4日。田淵のリストをうまく使った柔らかいスイングにとって、「回復後も少し硬さがあった」という左手首は致命的でもあった。10月は14試合で打率.234、本塁打はわずか1本に終わった。優勝は決めたが、当時、日本シリーズで指名打者制度を採用していなかったこともあり、新聞各紙では、「使わないだろう、せいぜい代打ではないか」と書かれていた。
 
 しかし、田淵はあきらめてはいなかった。

「最終戦の試合が終わった後も打撃練習をした。調整ではなく、とにかくベストを尽くそうと思って、日本シリーズまで毎日打ち込んだ」

 10月28日、翌日に第1戦を控えた練習中、「明日はスタメンでいくよ」と言われたときは「本当にうれしかった」と振り返る。

 29日、後楽園での第1戦。巨人の先発は、研究し尽くした江川卓。四番・田淵は第2打席で本塁打を打ち、思わずガッツポーズ。全試合「四番・一塁」でスタメン出場し、再び日本一の歓喜を手にした。

 天国から地獄……そしてまた天国。波乱の1年はハッピーエンドで終わった。

写真=BBM
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