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プロ野球回顧録

“青い稲妻”松本匡史がセ盗塁記録76を樹立も「足にスランプはありました」【プロ野球回顧録】

 

81年から盗塁が急増


青い手袋に、砂が入らぬように上下のつなぎにしたユニフォームも有名だった松本


 1976年、本拠地・後楽園球場に打球スピードが殺されにくい人工芝が導入された際、巨人長嶋茂雄監督は「スピード野球」をテーマに掲げた。同年秋のドラフトで社会人行きが決まっていた早大の俊足選手・松本匡史の強行指名も、その流れの中にあったと言えるだろう。

 入団後は、左肩の故障もあって伸び悩むが、スイッチヒッターに転向したことが転機となった。当初、左打席では、まともにバットに当たらず苦労したが、79年秋には伝説となった伊東キャンプで“涙汗”を流しながら振り込み、少しずつモノにしていった。まずは代走、守備固めから徐々に出場を増やし、初めて100試合以上に出場した81年には盗塁王の青木実(ヤクルト)に1盗塁差。「本当に悔しかったですよ。33と34ですからね」と振り返る。

 翌82年には頭部死球で離脱の時期がありながらも初の規定打席に到達し、61盗塁で盗塁王に輝いた。この年から定着したニックネームが“青い稲妻”だ。かつてチームの先輩である柴田勲が“赤い手袋”をトレードマークにしたように、水色の手袋から命名された。

「最初は何だかオーバーだなと恥ずかしかったんですよ。足の速さにはある程度、自信はありましたが、実績もありませんし……。たまたま、ジャイアンツの中で、僕の盗塁が一番多いというだけでしたからね」

 しかし、83年の春季キャンプ。シャイな男には珍しく威勢のいい目標をぶち上げた。

「打率3割。そして盗塁の数も、思い切って3ケタにいきたいですね」

 日本記録、阪急・福本豊の106への挑戦宣言だ。実際、この2つはリンクする。いくら盗塁技術が高く、足が速かろうが、出塁しなければ、そのチャンスすらないからだ。

夏場以降はペースが上がらずも……


 スタートは順調だった。5月には20、6月には21盗塁と量産。日本記録を更新するハイペースだった。しかし、7月は球宴で試合が減ったことに加え、月間打率が.239まで落ち込んだこともあって10盗塁。以後もペースはなかなか上がらなかった。それでも最終的には柴田が持っていたセ記録70を大きく更新する76盗塁をマークし、2年連続盗塁王。打率は3割にあと一歩及ばぬ.294だったが、一番打者として優勝に貢献した。

「セの記録はつくったけど、満足していません。7月までは余裕だったのに、記録が近付くと異様なプレッシャーを感じた。足にスランプはないと言うけど、僕にはありました。好調なときならポンとスタートが切れるのに、なぜかできない。そんな場面が何度もありましたからね。それから打率が落ちて、たまにしか塁に出られず、塁に出ても焦って走ってアウトになることが増えました。反省材料ですね」

 それでも終盤記録を伸ばせたのは、ライバル・高橋慶彦(広島)の存在があったからだ。高橋は70盗塁で、最後まで競った。

「彼と競っていたのは大きかった。ライバルがいないとなかなか記録は伸びないんですよ。彼はショートを守っていたので、僕が盗塁のとき二塁に入る。塁上でもなんやかんや言い合って、励みになりましたよ」

写真=BBM
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