週刊ベースボールONLINE

昭和助っ人賛歌

若手時代の原辰徳も憧れた超大物大リーガーが巨人へ、“ティーチャー”スミスとは?/昭和助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】

 

メジャーで通算314本塁打


83年、1億円を超える年俸で巨人と契約したスミス


「プロ野球年俸1千万円以上は207人」

 この見出しは『サンデー毎日』83年2月13日号で特集された、38年前の球界年俸事情である。当時は「1千万円プレーヤー」が一流の証と言われており、球団別最多は巨人の17名。なおチーム内の高給取りトップスリーは江川卓4400万円、西本聖3120万円、原辰徳2700万円だ。ちなみに男子ゴルフ1位は中島常幸の6822万円、大相撲1位は千代の富士の1707万円(懸賞金は除く)。そんな時代に世の中の度肝を抜く史上初の1億円を突破する外国人選手が日本球界へやってくる。年俸1億5600万円の超大物、レジー・スミスである。 

 メジャー17年間で2020安打に加え、通算314本塁打。これはスイッチヒッターとしては、ミッキー・マントルに次ぐ史上2位の記録(当時)で、大リーグで通算300ホーマー以上した選手が来日するのはフランク・ハワード(太平洋)以来二人目だった。オールスターの常連でドジャース時代には世界一経験もあり、ロスのK・DAYラジオに“レジー・スミス・ショー”という番組を持つほどのスター選手だ。その一方で83年開幕時には38歳になる年齢面や、79年シーズン当初にヒザと首を痛め、同年6月には右肩をグラウンドに叩きつけ骨折してしまい手術。以降は強肩で鳴らしていた外野守備にも衰えが目立った。だが、自身は完璧な野球選手だと自負するスミスにとって、打つだけの指名打者としてプレーするのはプライドが許さなかった。一方でFA時のリエントリー・ドラフトではどの球団からも指名されず、メジャーではお払い箱に近い立場と噂されていたのも事実だ。いわば大きな期待と少なくない不安面を抱えた巨人入団である。
 
 契約金を含めれば2億円超え、独特なアフロヘアーに口ヒゲも許される特別扱いの助っ人がもたらす、ジャイアンツ“日米摩擦”――。中畑清との一塁争い、そして原辰徳との四番争いをマスコミは煽った。それでも、トラブルメーカーという前評判とは異なり積極的にチームメートと交流を図り、同僚のクルーズには子ども用のバットとスポンジボールを使い体の軸がブレないスイングを教え、藤田元司監督や王貞治助監督もその輪に加わり、打撃論議に花を咲かせた。日本人選手にも熱心にアドバイスを送り“ティーチャー”と呼ばれ、王助監督の日本刀を使った素振りに興味を示し、実際にチャレンジしてみせる一面も。うどんや刺身といった日本食も舌に合った。チームに馴染もうとする姿に、キャンプを訪れた評論家の張本勲氏は「ひさびさの本物」と“あっぱれ”の太鼓判。スミスは自身の起用法について、「一塁のほうがベターだが、外野だって平気さ。日本の球場は狭いからね。そんなに強肩でなくても務まりそうだ。手術したあと、以前のような強肩はどっかにいっちゃったけど、ロイ(ホワイト)以上はいけるんじゃないかな」と自慢のヒゲをピクつかせた。

MVPに輝く原を打撃でサポート


四番・原(左)の能力をスミスも認めた


 そんな大物と『週刊ベースボール』の企画で対談した24歳の原辰徳は、2年前のベロビーチキャンプ以来の再会を「ボクはスミスさんと話をして、いろんなことを教えてもらいたいと思っているんです。コミュニケーションを持てることが今、うれしいんです」と無邪気に喜んだ。加熱する四番争い報道に対してスミスはこうけん制する。「チームメートというものは、絶対にコンピート(対抗)するという気持ちではいけないんだ。助け合わなければいけないんだ。綱引きをした場合に、同じ方向に一緒になって引っ張らなければならない」とレクチャー。“スミスさん”と“タツ”と呼び合う、まるで先生と生徒のような関係性である。

 しかし、だ。背番号7はキャンプ終盤のウォーミングアップ中に左股内転筋挫傷で別メニュー調整へ。これ以降、スミスは肩、腰、ヒザ、ヒジ、アキレス腱と常になんらかの故障に悩まされることになる。38歳の肉体はすでに満身創痍だったのだ。それでも、「五番・左翼」で迎えた開幕戦はいきなり死球を食らうも2打数2安打の好スタート。13日に初アーチを放つと翌14日には早くも、スミスは原に代わり第49代四番打者を務める。『週刊文春』の独占インタビューでは、「日本のファンには悪いけれど、率直にいって日本と大リーガー、いまの段階で五十年の開きがあると思う。オレは、その中で十七年間もトップクラスだったのさ」と胸を張った。

 しかし、5月には早くも息切れ。厳しい内角攻めに加え、日本のストライクゾーンに戸惑い、体調不良でスタメン落ちすることも増えたが、試合に出れば勝負強い打撃でチームを救う。そして広島とのV争いが加熱する夏場にはコンディションも上向き、「五番・右翼」でこの年のMVPに輝く原をサポートした。83年シーズン、巨人戦の年間平均視聴率は史上最高の27.1%を記録。『スチュワーデス物語』や『ふぞろいの林檎たち』といった人気ドラマさえも上回る驚異的な数字を叩き出したが、その狂熱の中心にいたのは、背番号7と8だった。
 
 クライマックスはリーグ優勝を決めた10月11日のヤクルト戦だ。先発した西本を江川がリリーフしたこの試合で、スミスはすべて左打席から先制、勝ち越し、ダメ押しの3本塁打6打点と大暴れする。この年、102試合の出場だったが、打率.285、72打点。263打数で28本塁打を放ってみせた。勝負を避けられた四球も多く、OPS1.036を記録。故障と闘いながらも大物メジャー・リーガーの迫力は健在だった。Vを決めた夜、選手会長の中畑清たちと銀座から六本木までハシゴして、朝の4時半まで飲み、カラオケも歌ったという。『週刊ベースボール』83年10月31日号ではスミスの巻頭インタビューが掲載。見事、自身の3発で優勝を決めた誇り高き男は、ご機嫌にチームメートの若き四番バッターを持ち上げ、ジャパンライフを語っている。

「私は誰がMVPにふさわしいか、疑う余地はないと思っている。それは、ハラだ。私自身は、スーパースターという呼び名は好きではないが、ハラはすべての面でその条件を満たしていると思う。全試合に出場し、傷ついてもプレーし、ホームランを打ち、打率もよく、打点も多いし、得点も多い。三塁守備もいいし、彼がそこにいるだけでチームのスピリットは上がった」

「(日本生活に馴染めたのは)オープン・マインドできたからさ。それと、違う世界のことをどんどん吸収するんだという気持ちで、自由に動き回った。試合で地方の小さい町に行っても、フラフラと通訳なしで出かけていった。そうやって本当の市民の生活に触れられたし、知ることができた。球団は迷子になるって心配したらしいが(笑)」

ビーンボールに対して断固たる態度


 あだ名どおり、どこか教師のような雰囲気を漂わせているが、兄は病原菌の学者。スミス自身も音楽を嗜み、幼少期から8年間にわたりチェロを弾き、大人になっても気が向いたらドラムを叩くインテリだった。『週刊読売』誌上で、セントルイス交響楽団指揮者レナード・スラットキンと「野球狂指揮者と野球哲学者対談」をしたこともある。「東京のジャズクラブを教えてくれ」と頼まれると、“ティーチャー”は「OK。いくらでも教えるよ。いま、クルセイダーズが来ているよ。ぼくの友だちはほとんど音楽家でね、東京でもしょっちゅう、音楽会をやっている」と笑った。普段は知的で時に激情家。大リーグ時代はベンチ上の客席から野次を飛ばすセールスマンに殴りかかったこともあったが、当時の米球界はまだ人種差別が根強く残っており、プライドが高いスミスは妥協することなく戦った。もちろん、ビーンボールに対しても断固たる態度を貫く。

「私を傷つけるというのであれば、私はそういう男を許すわけにはいかない。ボールなんか使わないで素手で勝負をつけようじゃないか。それがレジー・スミスの生き方だ。レジー・スミスは負けたくない。私もパンチを浴びるだろうが、相手にもパンチをお見舞いする。それが少なくとも私にとっての自然な、正直な反応なんだ」

 そして、あのウォーレン・クロマティが加入した84年シーズン。球団創立50周年を迎えた巨人は満を持して王貞治が監督に就任する。前年は日本シリーズで西武に敗れており、日本一奪還が至上命題だったが、チームは開幕10試合を1勝6敗3分けと大きく出遅れてしまう。来日2シーズン目の背番号7は、1月中旬に早くも来日して多摩川でトレーニングに励み、2月には松山千春が書いた曲『On the Radio』でレコードデビュー。「風呂場で歌っている時と同じだったよ」なんつって充実のオフを過ごしたスミスは、開幕カードで2本塁打の好スタートを切るも、直後にロッカールームの階段で転倒し、右手甲を打撲。この故障が思ったより重症で一時はバットが振れないほどだった。4月17日の鹿児島遠征では左目の違和感から、コンタクトレンズの使用を止められ、しばらくメガネで過ごすハメに。右手甲は5月に入っても回復せず、再度病院へ行くと右手首の腱神経が伸びきっているというショッキングな診断を受ける。野球選手としての勤続疲労のようなものだ。しばらく一発を狙える左打席は控えて、右打席中心で様子を見るしかなかった。

クロマティ[左]と宿舎の食事会場にて


 王巨人は首位広島に大きく離され、前年はVの使者だったはずの39歳は、やがて“戦犯”と叩かれ出す。思うようにグラウンドでプレーできないなら、せめてチームメートたちへバッティングのアドバイスを買って出るが、“職域侵犯”された打撃コーチの立場がなくなるため、やがて通訳を通して、勝手な助言は控えてくれと通達がきた。6月16日の大洋戦ではクロマティへの死球に怒り乱闘騒ぎを起こす。当時、『週刊ポスト』で「R・スミスのズドンと一発!助っ人日記」という連載を持っていたが、そこで大リーグで数多くの選手が頭へのデッドボールに倒れ辞めていくのを見てきたので、ビーンボールが危険ということをもっと認識してもらいたいと訴える。大洋戦でクロウに加勢したのも、昨年の広島戦で捕手への砂かけ事件を起こしたのも、頭を狙う投球は卑怯で我慢ならなかったのだと。

 とは言っても、クロマティとはグラウンドでは助け合ったが、プライベートでは二度飲みに行くも、最後まで打ち解けた話はしなかった。84年のスミスは体が衰え思うようにプレーできない自分に苛立ち、ベンチで暴れることもあったという。そんな荒れる先輩助っ人に対し、クロウは自著『さらばサムライ野球』(講談社)で「レジーの気持ちは分かる。大リーグのかつての大スター、第一線のプレーヤーが、日本でさえ思うようにプレーできないのだ。あれだけのキャリアの持ち主なら、誰だって身を切るほど辛いだろう」と書き記した。

日本で指導者の夢を見るも……


結局、2年でチームを去ったが野球ファンに強烈なインパクトを残した


 悪いことは重なり、8月には後楽園球場周辺で阪神ファンと小競り合いを起こすトラブルに見舞われる。球団からは球場へは人目につく電車ではなくタクシーを使うように言われていたが、スミスは頑なに自分のやり方を崩そうとせず、結果的に警察で事情聴取まで受けるハメになった。結局、この年は84試合、打率.255、17本塁打、50打点という成績に終わり、10月12日、体力の限界を理由に退団を発表する。直後の『週刊現代』掲載「引退スミスいまこそ明かす王巨人のフシギな内幕」によると、もはや手首と肩はホロボロで、夏前にはフロントに自ら「手遅れになる前に誰か新しい選手を見つけてくれ」と申し出るほどの状態だった。

 さらにスミスは、来年は二軍コーチをやりたいと王監督とは話し合っていたという。ファームにいる若手の才能を引き出し、開花させるのに必要なコツを教えたいのだと。このプランは組織のしがらみに埋もれ実現しなかったが、スミスは堀内恒夫とも仲が良く、「レジーは俺が監督になったら、コーチとして呼ぶつもりだった。またレジーが、向こうで監督になったら、俺をコーチとして呼ぶって話だったけど、結局ダメだったね。レジーは向こうで監督にならなかったし、俺が巨人の監督になったとき(04〜05年)、レジーを呼びたかったんだけど、彼の奥さんが体調を崩していて、来日できなかった。レジーは日本が好きだっただけに残念だったね」と後年明かしている。

 わずか2シーズンのプレーながらも、日本の野球ファンに強烈な印象を残した“ホンモノ”の大リーガー。衛星放送もインターネットも普及する前、日本でメジャー・リーグがまだファンタジーだった時代に、海の向こうから本場のリアルなベースボールを運んできてくれた功績は大きい。なお、91年から連載が始まったプロ野球助っ人選手を描いた人気漫画『REGGIE』の主人公、MLBの元スターで東京ジェントルメンにやってきたレジー・フォスターのモデルは、レジー・スミスだと言われている。

文=プロ野球死亡遊戯[中溝康隆] 写真=BBM
週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部が今注目の選手、出来事をお届け

関連情報

みんなのコメント

  • 新着順
  • いいね順

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング