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平成助っ人賛歌

激しいヘッドスライディングで全国区に。現役時のブラウン元広島監督が見せた闘志と“アニキ気質”/平成助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】

 

ブラウンはブラウンでも……


広島・ブラウン


「あたしは与田圭子っていいます。えっと中日の与田投手のヨダ」
「俺も近鉄の野茂のノモ!」

 これは1990年(平成2年)にフジテレビ系列で放送された月9ドラマ『すてきな片想い』のワンシーンである。“ギバちゃん”こと柳葉敏郎が演じる野茂俊平は「プロ野球ニュース」の生放送を見るためにダッシュで帰り、主題歌「愛してるっていわない!」を歌う中山美穂が与田監督じゃなくて、ヒロインの与田圭子だ。さらに劇中には潮崎豊や佐々岡ケンも登場。そう、90年にプロ野球界で大活躍した新人選手の名字が由来となっている。これを令和の時代に強引に例えると、広瀬すずと菅田将暉主演の恋愛ドラマで、役名が栗林と早川、その親友が佐藤と伊藤みたいなものだ。

 当時のプロ野球はそれだけ世間に近く、大衆性がある国民的娯楽だった。ミポリン(懐かしい)のドラマもオープニングからいかにも豪華な作りだが、この年の日本は海外旅行者数が初めて1000万人を突破。教養はないがカネはある「メッシーくん」や「アッシーくん」と呼ばれる男たちがBMWを走らせ、イタめしやティラミスがブームに。後から振り返れば、すでに景気の後退は始まっていたものの、まだ人々は狂熱の祭りに終わりが来るとは誰も予想だにしなかった。

 そのバブル末期の90年に巨人へ入団したのがマイク・ブラウンである。メガネ姿と広島戦で長冨浩志から放った逆転2ラン以外の印象は残っておらず、“ハズレ助っ人”のイメージが強いが、打撃成績を確認すると70試合で打率.282、7本塁打、29打点という数字が残っている。確かに同時代のクロマティと比較したら物足りないが、近年のセペダやフランシスコよりは全然働いているし、コロナ禍で家族と会えず今季途中退団したスモークも最終成績は7本塁打だった。マイク・ブラウンは現代の外国人枠なら、翌年もチャンスをもらえたかもしれない。あらためて、人の記憶はあてにならないものである。

ピート・ローズに憧れて


 さて、球界のブラウンと言えば、92年から広島でプレーしたマーティ・ブラウンを思い出すファンも多いだろう。しかし、監督時代の歴代最多12回の退場劇や抗議のベース投げパフォーマンスは鮮明に覚えていても、現役生活はもう30年近く前の遠い記憶である。92年に29歳で来日するも、大リーグ通算わずか11安打、0本塁打と戦前の期待値は低かった。前年はインディアンス傘下の3Aコロラド・スプリングスに所属していたが、監督を務めるのはヤクルト初優勝に大きく貢献したあのチャーリー・マニエル。“赤鬼”から「とにかく早く、日本人のピッチャーのクセ、配球を覚えることだ」と激励され、日本の土を踏んだ。

 春季キャンプでは、「とにかく非力」とか「目立たないからあだ名はジミー・ブラウン(ジミー大西風)」なんてマスコミの恰好のネタになる日々。3月21日には左母趾陥入爪で手術も、その5日後のオープン戦に志願出場して印象的なプレーを披露する。藤井寺球場での近鉄戦でショートへゴロを放つと、懸命に走り一塁に頭から滑り込む猛烈なヘッドスライディングを決めてみせたのだ。レッズのピート・ローズに憧れて、ヘッドスライディングや外野でのダイビングキャッチなど体を張ったハッスルプレーを真似る少年時代を過ごした。85年のドラフト12巡目でシンシナティ・レッズに指名されると、88年のメジャー初昇格時の監督はローズ本人という運命的な巡り合わせ。そのヒーローが野球賭博により球界から永久追放されても、「ローズは野球の才能にはたけていたが不器用な人だったと思う。成功したのはたゆまぬ努力があったからこそ。ボクもそうありたい」と背番号43の憧れは変わらなかった。

ブラウンのヘッドスライディング(オープン戦時)


 その名が一躍全国区となったのは、4月16日の巨人戦だ。ゴールデンタイムに生中継されていたこの試合。6回表、小早川毅彦の右中間への安打で、外野守備がもたつく間に一塁から一気にホームを突いたブラウンは、タイミングは完全にアウトだったが、捕手・藤田浩雅の頭上にダイビング・ヘッドスライディングして、落球を誘い同点のホームイン。コリジョンルールのある現代ではもう見られなくなった肉弾戦だが、両者のヘルメットが吹き飛ぶ激しいフライングボディプレスは夜のスポーツニュースで繰り返し放送され、翌朝のスポーツ新聞1面で大きく報じられた。広島の背番号43は一夜にして、名前と顔を知られるようになる。とは言っても、他の外国人選手のように巨体を生かして体当たりするのではなく、あくまでガッツとテクニックで魅せる。『ベースボールマガジン』92年夏季号で巻頭カラーを飾るのは、空を飛ぶブラウンの勇姿である。

「(体当たりについて)それはCHEAP PLAY(安っぽいプレー)だ。ホーム・ベースはキャッチャーに保有権がある。それを奪うには技とファイトが必要だ。ただぶつかるなんて安っぽいプレーはしたくない。どうやってホーム・ベースを奪うか。スライディングの技術の見せどころなんだよ」

「(巨人戦のヘッド・ダイブについて)どのスポットに入ればセーフになるか、それを考えたが、どこにもない。それならぶっ飛ばしてセーフになるしかない、と思ったんだよ。僕自身かなり衝撃があったから(捕手が)返球を捕球できたとは思わなかったよ」

来日時には5種類のグラブを持参した


 4月は打率3割を超え、5本塁打、21打点。開幕3試合目に右肩を骨折した四番候補のルイス・メディーナの穴を埋める予想外の活躍で、山本浩二監督を喜ばせた。68歳のニッポンのオヤジ役と言われた松本憲太郎通訳が「もうちょっと手を抜くことも覚えた方がいいんだが……」なんて心配するほど、練習メニューをすべて熱心にこなす真面目助っ人。自分は華やかな選手じゃない。便利屋稼業で生き延びるしかないのだ。朝、球場に来て、今日はセカンドをやってくれと言われたら喜んで引き受けるだろう。ブラウンは、来日時にキャッチャーミット、ファーストミット、三塁用、二塁用、外野用と5種類ものグラブを持参していた。

新打法を習得して


 好物はホットコーヒー。ベンチまで紙コップを持ち込み、夏でも熱いコーヒーを毎日楽しんだ。だが、シーズンが進むにつれ、ハッスルプレーの代償で背筋から腰を痛め、日本投手の変化球攻めにも苦戦する。ブラウンには打席でタイミングを取る際、上体が激しく揺れる悪癖があり、低めのスライダーやフォークが必要以上に揺れて見えた。この年、連覇を目指したチームは5月に首位から転落するとヤクルト、巨人、阪神のV争いに食い込めず、終わってみれば4位のBクラス。ブラウンは規定打席到達者中、ワーストの打率.233、19本塁打、68打点で1年目シーズンを終えた。

来日2年目は打撃で進化を見せた


 すると雪辱に燃える背番号43は、翌93年の春季キャンプから、水谷実雄チーフ兼打撃コーチとマンツーマンで、全身をゆっくり上下させてタイミングを取る新打法の習得に取り組む。年俸6000万円で2年契約の2年目。今年結果を残せなければ来年はない。5月に自打球が口元に当たり痛くてヒゲが剃れないアクシデントに見舞われたが、6月は4試合連続を含む10本塁打と調子を上げ、7月には自身初の月間MVPを受賞する。結果的に新打法で確実性に加え、長打も増えた。93年前半戦終了時にホームランダービーの2位につけ、「上下動でタイミングを取るのが彼のやり方だった。それを今さら白紙に戻すわけにはいかない。わずかな修正だったけど、ブラウンは聞く耳を持ってくれたね。それが一番だよ」と水谷コーチは助っ人のモデルチェンジを称え、ブラウンもその出会いに感謝した。

「ボクにとって幸運だったのは、すばらしい人たちに恵まれたことだと思う。ワイフ(アン夫人)も日本を気に入っているし、1年でも長くこっちにいたいんですよ」

 93年シーズンは内外野を守りながら、まだ20代前半の三番・前田智徳、四番・江藤智のあとの五番を打ち、打率.276、27本塁打、83打点、OPS.849の好成績を残す。翌94年はわずか28試合の出場に終わり、その年限りで静かに日本を去ったが、引退後はアメリカのマイナー・リーグで地道に指導者経験を積んだ。

 名門ジョージア大学で教育学を専攻した真面目人間、と思いきやブラウンには広島在籍時からこんなアニキ気質を感じさせるエピソードがある。当時のカープは遠征試合で勝った夜、宿舎の食事でビールが無料で振る舞われる。しかし、負けた日にそのサービスはなく、自腹を切って飲まなければならない。ある日、関西遠征で阪神にこっぴどく負けた夜のこと、なんとブラウンは意気消沈する若手選手たちに、「これを飲んでくれよ」と自分のポケットマネーでビールをご馳走したのである。
 
 激しい情熱を持つ一方で、同僚にさりげない気配りもできる男は、06年からカープの監督として再び日本に戻ることになる。

文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM
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