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「横浜高校は変わった」3年ぶりの甲子園、村田浩明監督が徹底させた「誰でもできることをやる」

 

険しかった名門再建への道


横浜高が神奈川176校の頂点に立った。3年ぶりの甲子園へ導いた就任2年目の村田浩明監督は男涙。高校時代は捕手で、楽天涌井秀章とバッテリーを組んだ


 横浜高・村田浩明監督は昨年4月、母校の指揮官に就任した。高校時代は2年春(2003年)のセンバツ準優勝を経験し、主将だった3年夏(04年)は甲子園8強。捕手として同級生の楽天・涌井秀章とバッテリーを組んだ。

 日体大を経て、教員の道へ。神奈川の県立高校からの甲子園出場を、最大の目標としていた。霧が丘高で部長を4年、13年秋からは白山高で監督を務めた。就任時の部員4人から徹底的に鍛え上げ、18年夏の北神奈川大会では8強進出。「公立の雄」の地位を築いた背景には、植え付けた3つの約束事があった。

「泥臭く、キビキビと、元気良く」

 19年9月末、横浜高に激震が走った。前部長と前監督が不祥事により、解任。同校は新監督の人選にあたり、村田監督にオファーを出した。就任要請を受諾すれば、神奈川県立高校の教諭(保健体育科)の職を辞さなければならない。人生の岐路。迷った。最終的な決め手は恩師・渡辺元智氏(元監督)からの「村田しかいない!」という後押しだった。

 20年4月に監督就任。名門再建への道は険しかった。村田監督が目指したのは、もちろん生徒を甲子園へ導くことだが、その大前提として、高校野球としてあるべき姿を求めた。

 横浜高でも「泥臭く、キビキビと、元気良く」の3項目を提示。そして「全力疾走」を口酸っぱく指導した。だが、一度、緩んだ雰囲気を戻すのは大変だった。村田監督は部員の奮起を促すため、こんな叱咤まで飛ばしている。

「甲子園を目指す『思い』は、白山高校の子たちのほうが上だったぞ!」

 横浜高には毎年、全国からグレーのユニフォームにあこがれた有力選手が入学してくる。部員からすれば、最も聞きたくない言葉だったに違いない。潜在能力と結束力、そして徹底力が身につけば「負けない野球」が実践できるのは明らかだった。

見ていて応援したくなるチーム


「誰でもできることをやる。そこが崩れると、弱点が生まれる。チームカラーを一変させ、横浜高校の野球を確立させたい」(村田監督)

 春の県大会から、この言葉を連呼していた。迎えた2021年夏、横浜高にはスキがなかった。2回戦から決勝まで7試合、一度もリードを許すことなく、176校の頂点に立った。コールドゲームがない決勝(対横浜創学館高)は24安打17得点と圧倒(17対3)。攻守に強さを発揮したのである。

 神奈川県の高校野球の関係者の誰もが「横浜高校は変わった」と言っていた。まさしく、見ていて、応援したくなるチーム。熱血漢の村田監督は、甲子園を決めると男泣きした。

 しかし、涙もこの日まで。翌日からは全国制覇を目指す戦いの準備を始める。神奈川県高野連・熊野宏之会長は7月28日、閉会式のあいさつで「東海大相模の分まで戦ってほしい。神奈川勢の春夏連覇を目指してください」とエールを送った。今春のセンバツを制した東海大相模高は大会期間中、新型コロナウイルスの感染者が確認され、準々決勝を前にして出場辞退。当然、村田監督もその「思い」を心に秘めている。

 横浜高の夏の甲子園優勝は西武松坂大輔を擁して春夏連覇を遂げた1998年以来、遠ざかる。今季限りでの現役引退を表明している松坂は村田監督が就任した際、活動拠点である長浜グラウンドまで足を運び、激励の言葉を送ったという。村田監督は先輩、後輩から慕われており、支援者は後を絶たない。3年ぶりの甲子園出場は、序章に過ぎない。全国制覇を遂げてこそ、真の名門復活と言える。

文=岡本朋祐 写真=矢野寿明
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